テレビで郷里を知る
まだインターネットのなかった1991年、NHKの5分間番組「名曲アルバム」でワルツ「波濤を越えて」を見た。ウィーンを思わせる優美なメロディだが、メキシコ人が作曲したことは知っていた。郷里の町が映っている。サンタ・クルス・デ・ガレアナが「1930年に作曲者の名を冠してフベンティーノ・ローサスに改称」とテロップが。一軒ずつ家が違う色に塗られている。1度目のメキシコ旅行で見た街並みを思い出す。小さな町にずっしりと重みのある教会も。
行きたくなった
たまたま2度目のメキシコ旅行を予定していた。会社の書架から英国製の大型の世界地図帳を取り出し、巻末索引でJuventino Rosasは何ページか? あった。小さな活字が。Celayaのすぐ近くに。
日本からの訪問に驚き
3カ月後、セラヤのバスターミナルに降り立った。2大都市メキシコシティとグアダラハラのほぼ中間点だ。この一帯に名所はないのか、ここでも、また、一つ前に立ち寄ったイラプアトのバスターミナルでも、アメリカ人旅行者は見かけなかった。
フベンティーノ・ローサス行きのバスに乗り換えると、何とボンネット・バス。私には「昔懐かしい」との実感もない。隣席の品の良い婦人に話しかけた。
「私は日本から来ました。作曲家の生地は市内のどこでしょうか?」
婦人は驚いた声で
「日本から! 想像も付きません。アメリカの音楽関係者はたまにこの町に来ますが。」
建材店を営んでおり、自宅兼店舗に帰る途中だという。
生家跡地
ローサス市のターミナルに着き、
「一緒にタクシーに乗れ。」
と言って連れて行ってくれたのが公会堂。生家跡地らしい。庭には、この町が生んだ天才の胸像が。かすれた印刷の説明書をもらった。
手料理で歓待
ここからすぐ近所の自宅に来いと言う。途中、立派な教会の前を通りがかった。テレビで見た通りの。
たまたま、ご主人さん、当時8歳の娘さんも家にいた。手造りの料理を振舞ってくれた。見ず知らずの私に。日本からの訪問者が余程嬉しかったのだろう。
原題は「泉水のほとりに」
公会堂でもらった説明書を読んでみた。
「小川で水浴していて『泉水のほとりに』(Junto al manantial)の題を思い付いたが、『波濤を越えて』(Sobre las olas)に変えた。」
実は、帰国直後にこの曲を含むCDを買った。オーストリア人がウィーンのオーケストラを指揮したワルツ集をわざわざ探し求めたのだ。
(同じ音源のYouTube:フランツ・バウアー=トイスル(指揮)、ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団)
全音ピアノピースと見比べながら聴くと、energicoと表示された箇所も力を入れずさらりと奏でている。さすがはウィーンの優美さ。「泉水のほとりに」の解釈だろう。作曲家の生地で本当の事を知ったため、この演奏が益々素晴らしく聞こえる。
“Juventino Rosas – Wikipedia”ドイツ語ページ(同上より、楽譜の表紙。ドイツ系移民がメキシコシティに設立したCasa Wagner y Lievenが1888年に出版した。題名の下には、小さくドイツ語で”Ueber den Wellen”とも印刷されている。他の作品の楽譜表紙も美しい。)
謎
だが、高原の小さな町に生まれたローサスが、なぜこれだけ都会的で優雅なメロディを創れたのか、遂に分からずじまい。独身で若死にし、傍系の子孫もこの町にはいない。首都メキシコシティの音楽院に入ったと、この時知ったが、オーストリア人に学んだとは伝わっていない。
現地の人々の心
心地良く迎えられたこの町を3時間程で後にした。ザルツブルクのモーツァルト生家、ボンのベートーベン生家が博物館にされ、各国から客を集めているのと比べると、ひっそりとしていた。だが、地元の人達は郷里が生んだ天才に誇りを持って生きていることが分かり、大きな収穫だった。
今なら
インターネットで世界は縮まった。一発屋の作曲家の経歴、観光名所のない外国の小さな町について、簡単に調べられる。その気になれば出かけることもできる。
逆に、私が住む千葉県松戸市で、最近、名所でない普通の神社でカメラを持った外国人を見かけた。
だが、インターネットのない時代、紙の地図の時代に、偶然と幸運が重なって作曲家の生地を訪ねることができた。草の根レベルの交流というおまけまで付いた。
地震大国の絆
余談だが、20年経って、3.11の直後、建材店主ご夫妻からお気遣いの手紙を頂いた。私は、
「我々は地震大国に住んでいます。1985年に、メキシコシティの高層ビルが押し潰された写真を見て衝撃を受けました。ご家族の皆様の安全と健康を祈ります。」
と返信した。