【インタビュー】キャリアじゃない、人生だ。 ~メキシコで我が道をゆく。東レ 常深昌利 ~

「キャリアじゃない、人生だ」をテーマにメキシコで活躍されている方へのインタビューシリーズ。第2回目は、メキシコで30年以上のご経験を持つ東レアドバンスドテキスタイルメキシコの代表取締役の常深昌利さんにインタビュー。メキシコで長きに渡り活躍されている常深さんの波乱万丈な生き方やメキシコで働く秘訣について迫りました。

ご経歴について教えてください。

私は、1962年に兵庫県神戸市に生まれました。外国の方が多く住んでいる神戸の割には海外に触れることもない環境でしたが、当時地元で誘いを受けて始めた英語演劇に通った関係で、中学2年の時にアメリカへホームステイに行く機会に恵まれ、これが海外との初めての接点となりました。

帰国後まもなく、新しい言語教材としてスペイン語に出会いました。刺激を受けたホームステイ経験以降、海外との接点を希望していましたので、商社への就職願望が強く、スペイン語を一から勉強してみようと、大学は地元の神戸市外国語大学イスパニア学科に入学、1986年の卒業後は在阪商社の蝶理に入社しました。振り返ると、縁あって聞いたスペイン語との出会いから40年以上の歳月が過ぎたことになります。

私が就職した頃は対ドル円高が進行していた頃で、ビジネスの構造が変わり始める時期でもありました。そうした日本発のビジネスに変革を迎え始める中、中南米では政治経済の安定に伴いインフレから脱却、輸入開放の動きに切り替わる国も出始めた頃でした。蝶理ではスズキの中南米向け製品販売に係る事業があり、80年代の終盤よりこれに携わるべく大阪より東京に異動し、多くの中南米・カリブ地域のお客様への対応が始まりました。そして前任者のメキシコ駐在に伴い、1990年よりメキシコを担当することになりました。

私は車やバイクが大好きで、現地の代理店を通じてバイクの輸入販売をサポートする業務でしたので趣味とスペイン語の一石二鳥と思いきや、初出張では現地代理店とのコミュニケーションに疲労困憊・消化不良を感じたことが未だに思い出されます(笑)そして4年後の1994年にメキシコ事務所駐在の命を受け、32歳でメキシコ初駐在となりました。

当時のメキシコは、開放経済とインフレを徹底的に抑える政策のPRIのサリナス政権の終局にあたり、NAFTAの始まりもあったので、前進国家への道を期待し信じて止みませんでした。 一方で、インフレを抑えるがあまりに閉そく感が生じ、次期大統領候補のコロシオ氏の演説中の暗殺など、不安要因が高まっていたこともあり、駐在10ヵ月後の1994年12月、政権を受け継いだセディージョ大統領が経済政策維持の断念を宣言しました。これがいわゆるテキーラショックの始まりで、当時のメキシコペソは対ドル3.2から一挙に5レベルにまで切り下がり、1995年のインフレは70%近くに達し、ほとんどのメキシコの銀行が破綻しました。

最初の駐在で1年を経ずに悲惨な状況に遭遇し環境は一転、代理店は破産し市場からはクレームを受ける立場となりましたが、その後、日本から現地法人設立の指示を受け、これに労を費やしたことで、更にメキシコとのつながりが長くなりました。

一旦1996年に帰国しましたが、新たな機会を頂き2000年に現地法人の代表としてメキシコに舞い戻り、結果的に以降10年の任期を務めました。

その間も市場環境は目まぐるしく変わりました。世界貿易における中国の台頭、南米経済の破綻、リーマンショック、等々。これらがメキシコに与えた影響は大きかったですが、日頃より起こることに正面から取り組むことで、最後は何が起きても驚かなくなったような気がします。

特に、この駐在期において、2005年に蝶理からスズキに転籍し、メキシコでの四輪車販売開始の機会を経験できたことは、私の人生においても、より大きな財産となりました。メキシコの投資家を探して毎日商談に行ったのを今でも懐かしく思います。

その後、2010年にコロンビア異動となりましたが、諸事情を抱え2011年にスズキを退職、東北震災の1週間後に日本帰国という事態まで経験しました。

スズキをやめる時は「怖さ」を感じましたか?

怖さというか、「信じる者は救われる」に頼ったんでしょうね、裏返せば「何とかなる精神」でしょうか、いろんなことに耳を傾けながら、コミュニケーションを通じて考えたり想像したりすることを大事にやってきていましたので。

その時々で出来ることを全力で取り組んでいれば、結果はついて来ると思っています。もちろん「収穫になるもの」と「ならないもの」がありますが、どんな分野であっても、取り組んだことは知恵に繋がります。損得感情で物事を捉えずに、大半の人々が知り得ない領域、レベルの知恵や知識を得ようという姿勢でやってきました。

東レではどのようなお仕事をしているのでしょうか。

東レはハリスコ州で1つの商事会社と3つの製造会社を展開しています。私は最初に商事会社の東レインターナショナルメキシコで3年、その後、車のエアバック用の基布を作る東レアドバンスドテキスタイルメキシコという製造会社で約7年目になります。他にも炭素繊維やプラスチック樹脂などの製造会社があります。

2013年にメキシコで東レの仕事を始めた頃は、日本人は私一人でしたが、東レの会社も事業を拡大し、現在では日本人が16人にまで増えました。現在は製造会社での業務に加えて、東レメキシコグループのアドバイザーとして、東レがメキシコで継続的に発展していくのに必要な環境整備や出向者の在留支援などのサポートする役割を担っています。

メキシコは、2010年頃より自動車製造拠点として多くの海外からの投資を受け入れ始めましたが、こと素材においては非常に出遅れていたと思います。そんな中、高機能素材を提供するサプライチェーンメーカーである東レが参画したことは、長年自動車業界を見てきた私には衝撃的でしたし、そこで事業育成の側面を担えることは大変嬉しいことでした。一方で、東レにとってメキシコは未知の国ということで、出向者や家族の生活面や健康管理において、不安が大きかったと思いますし、私もメキシコシティ在住でハリスコ勤務という変則的な形でやってきましたが、理想を言えばきりがありませんが、安全第一での生活環境を形成できたのではないかと思っています。

常深さんにとって「メキシコで働くこと」について教えてください。

現地で働く上で、多少厳しいことも含めて、言いにくいことも言いたいことも、遠慮なく伝えるようにしてきましたね。時には従業員と深夜まで議論をしたこともありますし、結果、価値観を共有し苦労を共にしたメキシコ人とは信頼関係を築けたと思いますし、今でもいい関係を続けています。

ただ、長きに渡りメキシコで仕事をしてきましたが、信頼関係に至るには、なかなかチャレンジなことであったと、いま振り返っても強く感じるところです。

例えば、メキシコ人は一般的に失敗や綻びを見せないようにするところが多くありますし、口実を使うこともあるので、悪くなくてもすいませんを連発する日本人もいかがなものかと思いますが、この両文化の違いを仕事の上で如何にバランスさせるか、私も含めて皆さんがご苦労されてきたことではないかと思います。

そこで私は、正面から分かり易い表現で歯に衣着せぬように、間違いや失敗を犯すことより、それを隠したり自らを放免しようとする行為こそが、信頼に逆行することであると言い続けるようにしています。言われて気が付く人もいれば、理解しようとしない人もいますが、階級でも学歴でもなく、理解して正そうとするメキシコ人と出会った時は、「この人ならある程度の仕事は任せられる」という金の卵を当てた気分になりますし、そのような人間道徳こそが、メキシコでの企業運営では重要なことだと考えています。

苦労することが多いメキシコとの取組みでしたが、結論としては、やはり私はメキシコのことが好きで、若いころからいろんな経験をさせてもらったこの地に、私にしかできない何かを残せればという、感謝の側面なんだと思います。

また、かつて私は、どちらかというと悲観的で短期な性格でしたが、メキシコ人の明るさと、のんびりした性格のおかげで、多少は楽観的で気長に考えるようになったと自己分析しており(というより、メキシコでは何事も焦っても仕方ないのかもしれません)、性格さえも変わるような環境で長くやってきたんだなあ、と振り返っています。

メキシコはまだまだ完全に先進国だとは言えませんが、潜在能力は底知れないと思っています。多くの人にチャンスが与えられ、活躍の場を獲得できるような下地というか土台を作ることができればいいなあと思っています。

日本人がメキシコで働く事に関して教えてください。

歴史が語るように、古くからメキシコ人と日本人にはリスペクトがありますし、地震が多いとか、人口も同じくらいだとかの共通点も多く、いろんな意味で、良好な関係を継続してきている思います。一方で、昨今、中米や南米では、極東への見方が大きく変化しており、メキシコにもその流れが来ていると感じます。例えば、私が最初にメキシコに来た当時は殆ど目にしなかった中国企業や韓国企業の進出が目まぐるしく、生活面でも、最初の駐在ではメキシコシティには韓国料理店は1-2店しかありませんしたが、現在の姿は大きく変わっています。

私はこれまで、日本人だからこそできる仕事があると信じてやってきました。「おもてなし」に代表されるような付加価値的なもので、金銭でも外観でもないぼんやりしたものですが、ただ、いくらいいものがあっても、表現する力や伝える熱意などは必要になってきます。また、それは日本人にはやや不得意な分野です。私の先輩が仰っていた言い回しですと、農耕的な日本人は大陸性の狩猟的な真似はできない、とか。

メキシコもこれからはグローバル化による市場競争原理が益々激化して行くと思いますので、昔の良き話しに増して、表現やアピールをやや狩猟的観点で推し進めていく必要があるのではと感じています。「言わんでもわかるやろ」みたいな感覚は、まずラテンでもメキシコでもあり得ませんので、一歩引いて相手の理解に期待する美学より、明確に繰り返し伝えようとする部分のブラッシュアップが必要になってくるのではと考えています。言葉だけではなく、表情や言い回しといった部分で、私自身も引き続き勉強して行きたいと思っています。

20代の若者に贈るメッセージ

自分が決めたことには、後悔しないように全力で取り組んでほしいですね。

やり直しをしようと思ったら変えるチャンスはいくらでもあります。

私も多くの挫折を味わいましたし、考えて努力してとことんまでやった上で、それでもあかんと思ったら変えたらいいんです。

ただ好まないから、とか、努力をするのが嫌だからという理由で逃げ出したらその先には何も残りません。

私の場合は運命的でしたが、30歳を前にして「スペイン語」と「車・バイク」という"人生のレール"を見つけ、その上を走るトロッコに乗ることができ、ありがたくも未だにそのレールを走っているような気がします。若い皆さんには、どこかで自分の信じるレールが見つかることを希望しますし、見つけたら迷わずに飛び乗ってほしいですね。

また、時代に合ったやり方を探すのも大切だと思います。先人には先人なりの辛い時代があり、私たちの時代にはその時代特有の大変さがありました。今の時代の流れを読み取り、時に感じ取って、自分にしかないものを、どこの国のどの分野で最大のパーフォーマンスが発揮できるかを、経験を積みながら探してもらいたいです。

是非、皆さんにも素晴らしい”人生のレール”を見つけて幸せを感じて欲しいと願っています。

【新人営業マン原のつぶやき】

常深さんは、まさに企画の通りの「キャリアじゃない、人生だ」という生き方をして来られた方で、若輩者である私にとっては目から鱗の話ばかりでした。

中でも、メキシコで働くにあたってAmigoではいけないという部分がとても印象に残っており、メキシコの良い所でもあるフレンドリーな国民性と仕事を如何に切り分けて考えることができるかが重要な点であることを勉強させて頂きました。日々、自分との戦いです。昨日より今日、今日より明日というように「我以外皆我師」という言葉を胸に、毎日少しずつ前に進んで参ります。

■原の自己紹介

埼玉県東松山市生まれ。小学1年から高校3年まで12年間サッカーに打ち込む。大学時代には留学先のアメリカでブラジル人に出会い中南米に興味を抱く。大学卒業後、新卒でEncounter Japanに入社し、現在営業を担当をしている。趣味はラーメンと書道。

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