ご経歴について教えてください。
神奈川県茅ヶ崎市で生まれ育ちました。湘南白百合学園という小中高一貫校に高校まで通い、大学は東京女子大学で経済学と社会学を学びました。
青年海外協力隊やODAなど国際協力の分野で働いた後、2017年にはロータリー財団奨学生としてカリフォルニア大学(UCLA)教育学大学院で教育学を専攻しました。
幼い頃から地図やドキュメンタリーが好きだったことと私の家庭や通っていた学校が日本的な考え方が強かったことへの反発から、中学の頃には海外に行きたいと言っていた記憶があります。そして、15歳の時に初めてアメリカに1か月間滞在しホームステイをしました。映画などでイメージしていたアメリカの家庭とは異なり、ホストファミリーはベトナム移民の方でした。その経験から自分が持っていたアメリカのイメージと現実との「違い」を知り、多様性の感覚を自然に養っていたと今振り返ると思います。また、自分がこれまでにいたコミュニティの狭さに気付くことができました。
海外での生活を通じて日本では感じることのできなかった刺激を受けて、大学時代はバックパッカーとして50カ国近くを渡り歩きました。大学卒業後は青年海外協力隊としてパラグアイで2年間、活動しました。
バックパッカー時代には、心配をかけたくないという理由から親に嘘をついて、自分の行きたい国へ行くこともありました。例えば、本当はパキスタンやインドに行く予定のところを、イギリスに行くと伝えていたり…。このような経験から、政府機関であるJICAが派遣している青年海外協力隊であれば、セキュリティの面から、家族にも安心してもらいながら海外で働くことができると考え、卒業後の進路として青年海外協力隊を選択しました。
一方で、当時は就職活動もしており、NHKの報道部門のニュースカメラマン職を希望していました。最終面接で、「あなたは女性ですが、妊娠や結婚をしたらカメラマンの仕事はどうしますか?」という質問に対して「やめると思います。」と正直に答えたことが原因か、内定をもらうことはできませんでした。この回答が直接的な理由であるかは分からないのですが、自分でも落ちるだろうなと感じていたのが正直なところです。自分に嘘をついて受かっていても結局辞めてしまうのであれば相手にも誠実でないと思うので、この決断に後悔はありません。他に出版社にも内定を貰っていたのですが、日本を飛び出し、海外に出ていきたい気持ちが勝り、青年海外協力隊に参加する事を決めました。
実際に青年海外協力隊では何をされていたのですか?
パラグアイの首都からほど近い小さな村で「HIVに感染したり早期妊娠などが原因で学校からドロップアウトしてしまう子供達に社会的な活動をさせてほしい」というざっくばらんな課題をもらい解決策を考えていくという活動です。
ドラッグやアルコールに逃げてしまったり、15歳前後で子供を何人も連れていたりするような青少年に何ができるかと考えた結果、私はコミュニティでの彼らの居場所作りが必要だと考えました。まず、彼らのニーズを知り、子供たち自身がイニシアチブを取れる仕組みをつくりました。また、スポーツなどの活動を行える広場建設のプロジェクトや、将来の就職につながるような職業訓練(コンピューター、英語・日本語講座など)を実施しました。活動は楽しく、今でも思い出に残っているのですが、同時に活動のさなかで、「実際に自分にできることなんてほとんど何もなく、たった2年間で本当にこの子達の為になるようなことができるのだろうか?」という想いが頭の中を駆け巡りました。
私達の活動に対し、感謝してくれる現地の人々もいましたし、青年海外協力隊がその村にいたことで医学部を目指した子供もいました。でも現実には、彼らは村から街に出るお金すら持っていません。彼らをモチベートさせるだけさせて、結果的には理想と現実との違いにがっかりさせてしまうのではないかと感じていました。
その後も、中米にあるエルサルバドルの日本大使館で草の根・人間の安全保障無償資金協力委嘱員として活動し、日本政府の資金援助で、現地に学校の校舎を作ったり、小さな橋を作ったりしました。しかし3年後や5年後に、モニタリングといって現地の様子を見に行く機会があったのですが、お金をかけて作った学校や橋が実際には使われていなかったり、壊れているということが少なくありませんでした。このような状況から、私がこれまで関わってきたODA(政府開発援助)だけでは、貧しい人たちを本当の意味で救う事はできないと感じました。その後、日本ユニセフ協会にてファンドレイジングにも携わりましたが、国連機関などは政治的で持続可能な本質的な問題の解決にはならないと身を持って知りました。
パラグアイやエルサルバドルでの経験から、ODAでは本質的な問題解決ができないと感じられたのですね。その後岩村さんの中で新たな解決策は見つかったのでしょうか?
これらの経験を経て、本質的な問題解決の為には、貧しい人々に直接支援をするよりも制度を根本から変えることのできる役割を担える人材を教育する必要があると強く実感しました。それはいわゆる経済社会的にいうと中の上である上位中間層です。なぜかと言うと、上の上である本当の富裕層は、公共交通機関を使ったことすらないような人たちで、貧困層と触れあう機会がほとんどなくそれらの人々と隔絶した生活をしている一方で、貧困層はそもそも教育や社会経験のチャンスが与えられてないので、自ら問題を解決するのは極めて難しいのが現実だからです。
そのため、上位中間層の家庭にいる子供達へ正しい教育をすることが、貧富の差の解消やインフラの充実などの社会問題に向き合う人材を育むことができる方法であると考えました。
現在は教育に関するお仕事をされていますが、実際どんなことをされているのしょうか?
現在は、メキシコにある日本メキシコ学院(リセオ)という学校で文化交流企画局長を務めています。日本メキシコ学院は、教育と文化交流活動を通じて、メキシコと日本という二つの貴い文化の連帯と協調、理解の架け橋となることを目的として設立された学校です。幼稚部から高校部まであり、日本コース約130名、メキシココース約1000名の2コースに分かれています。私は、日本人とメキシコ人の部下をまとめるポジションにおいて、日本コースとメキシココース間の交流を深められるよう、多文化共生プロジェクトの展開、コミュニケーションの推進を日々行なっています。
日本メキシコ学院で働くきっかけは何だったのでしょうか?
ちょうどパラグアイやエルサルバドルでの経験から教育の必要性を感じていた頃に、私は東京の永田町にあるメキシコ大使館で働いていて、当時の同僚が日本メキシコ学院の出身ということがきっかけで当学院の事を知りました。初めは、面白い学校があるんだなくらいの印象でしたが、理念や教育方針を調べていくうちに「将来システムを作る側を担う子供たちの教育に携われるかもしれない」と考えるようになり、自分はここに行くべきであるという使命感を感じました。もともとラテン文化は好きだったのですが、メキシコという特定の国に興味を持っていた訳ではなく、「行きついた」という表現の方がしっくりきますね。本当にタイミングがよかったなと思います。
メキシコに来る際は、日本に夫を残して来ました。家族にとっては大きな決断だと思いますが、迷いはありませんでした。むしろ、今まで、青年海外協力隊で活動していた時からずっと考えてやってきた事がここに集約されたという運命のような感覚でした。もちろん、初めは家族に反対を受けたのですが、夫は私の考えを理解してくれました。目の前にやりたい事ができるチャンスがあって、それを掴まない選択肢は私にはありませんでした。とはいえ、やりたいことを尊重してくれる夫には本当に感謝しています。
実際に教育の分野で働いていて貧富の差をはじめとする社会問題解決への可能性を感じていますか?
可能性自体は、とても感じています。しかしそれを実現する為には、まず私たち大人が変わる事が最優先だとも感じています。
教育のような堅い業界だと尚更ですが、そもそも何かを変化させること自体が困難である事も事実です。学校の先生たちは教育の根本にある大きなビジョンなどを考える以前に、やるべき業務が目の前にたくさんあり、毎日忙しくしています。そして悲しいかな、新しいことをやらなくても同じことを毎日やっていれば学校生活が成り立ってしまうのも事実です。
このような状況下で変化を促す為にどうやって先生達をモチベートしていくのかというのが私の役割だと思っており、頭を悩ませることも多いですが、同時にやりがいを感じています。
直近の課題で言うと、ポテンシャルに比べてまだまだ日々の交流活動が少ないことがあげられます。当院の建学の精神は「他との違いを理解し、お互いを尊重し合って多文化共生社会を築いていこう」というものですが、普段はメキシココースと日本コースで分かれて生活をしています。また交流は、おもに教員が主導する交流授業を通して行われるため、子供たちが自発的かつ自然に関わりをもつ機会が不足していると感じています。子供の時から、肌の色や目の色が違っていても、話す言語が違っていても、どうにかコミュニケーションを取ろうとすることが大切で、話してみるとそれらの違いがちっぽけであることに気付ける貴重な環境がこの学校にはあるはずです。
コロナ禍では、感染のリスクを考慮して対面交流の場を制限せざるを得ませんでした。私は教育とは、子供の安全を第一に考えた上で、大人がある程度のリスクを取って、挑戦をさせる環境を作ってあげることが何よりも大切だと信じています。
対面での交流が難しい中、コロナのおかげでZoomなどが使用できるようになり、子供たちは日本の同世代の子どもたちとオンライン交流ができるようになりました。片言の日本語、英語、スペイン語を駆使して、なんとか頑張ってコミュニケーションをとろうとしている生徒たちの姿をみるととても嬉しくなります。
子供の成長のために人種や国籍を超えた自発的で自然な交流の場を増やす事が、この学校で果たしたい私のミッションです。とは言っても、私一人がやりたいだけではダメで、様々な立場のひとたちを巻き込んでいく必要があると思っています。
メキシコでメキシコ人と働く難しさを教えてください。
日々一緒に仕事をする中で色々な衝突がありますが、結局、解決方法は「コミュニケーション」しかないと思います。言葉だけでなく、アイコンタクト、ハグ、挨拶、態度、笑顔、と言ったような、何気ない日々の行動の積み重ねです。この蓄積によって、本当に重要なことを伝える際にも受け入れてもらえるんです。だから、話題がない時でも、頑張って話しかけようという意識は持っています。でも、こう見えて実際は社交的な人間ではないんです(笑)。インドア派で休みの日はベットからほとんど動かないほどです。
また、メキシコ人に厳しいことを言わなければならない時は、人前では話さないように気を付けています。プライドを傷つけず、相手を立てて解決策を考えていく姿勢で親身に話せば、関係性はよくなると思います。
岩村さんにとってリーダーシップとは何ですか?
自分らしさを出して、「自分はこういう人間だ」ということを知ってもらうことだと思っています。自分を繕ってしまうと後で嘘をつかないといけなくなってしまいます。初めからさらけ出さないと信頼関係を築くことができません。100人いて100人に好かれる事はまずなくて、1人でも2人でもありのままの自分を分かってくれる人が見つかったならそれはラッキーなことかと思います。そもそも人間関係において、自分が合わないと感じる人は、相手も同じことを思っていますからね。
また、真摯に人と向き合っていると自然といい人が集まって来るということも、メキシコに来て改めて感じています。リーダーシップとは、上から押さえつけて何か指示することではなくて、ありのままの自分を見せて、もしかしたら私に付いて来てくれる人がいる。またその人たちが次の人たちに良い影響を与え、巻き込んでいく。それが私の中で本当のリーダーだと思います。
海外に出ていく、海外で働こうとしている読者へのメッセージをお願いします。
海外に出ている人って、何か志があってすでに頑張っていると思うんですよ。
だからこそ、諦めてもいいとお伝えしたいです。そんなに背負わなくても一生懸命にやっていれば道は開けてくるし、周りの人が助けてくれると思うんです。たとえ、今何かを諦めてメキシコから日本に帰ったとしても何も失敗ではない、次のステップだと考えればいいんです。ただ、自分自身への責任として、明日どうなるか分からないけど、自分が選択した道に対して全力で向き合う意識は忘れないで欲しいです。
難しく考えずにやりたければやってみればいい。嫌なことがあったらやめてもいい。そして、楽しかったら続けてみてください。
編集後記:【新人営業マン原のつぶやき】
岩村さんは多文化共生の実現という信念を元に一貫した行動を取って来られた方で、一つ一つのお言葉に重みを感じました。中でも、「自分をさらけ出すことが信頼関係を築く鍵である。」「100人全員に好かれる事は不可能で1人でも2人でも自分を分かってくれる人がいれば十分である」という言葉が印象的でした。私は自分の弱さから、ありのままの自分をさらけ出すことをためらい、嫌われないための行動を取ってしまうことがあります。しかし、周りの方々の信頼があって初めてチャンスを頂けると思うので、自分と相手に嘘をつかないようにありのままの自分をさらけ出す努力をしていこうと岩村さんへのインタビューを通して感じました。
原の自己紹介
埼玉県東松山市生まれ。小学1年から高校3年まで12年間サッカーに打ち込む。大学時代には留学先のアメリカでブラジル人に出会い中南米に興味を抱く。大学卒業後、新卒でEncounter Japanに入社し、現在営業を担当。インタビュー連載「キャリアじゃない、生き方だ」を通してメキシコで活躍される大先輩方より生き方を勉強中。趣味はラーメンと書道。