料理と海外志向の家族に囲まれて幼少期を過ごす
私は滋賀県の大津市で生まれました。実家が飲食店を営んでいたため、幼少期から「料理」は身近な存在で、料理をする父親の姿を見て育ちました。海外志向の父親から、父親のコレクションである海外製の時計やバイクの価値についていつも話を聞いていたので、幼い頃から海外への憧れを抱いていました。
地元の高校を卒業した後、私は料理の専門学校に通いたかったのですが、両親には大学進学を勧められたため、大学受験をすることになりましたが、結果は不合格。その後、一浪して大学受験に挑戦しましたが、再度失敗しました。二浪することはせず、兼ねてから希望していた辻調理専門学校に入学しました。
専門学校を卒業後、料亭やレストラン等へ就職することなく、フリーターとなります。Barで働いてみたり、土方や植木屋のバイトをして、生活をしていました。専門学生時代にアルバイトしていた料亭の上司とウマが合わず、上下関係の厳しい日本の料理業界で働きたくないと漠然と感じていたんです。
一人旅に意味を見出せず、父親の店で働くことに
フリーターをしながらお金を貯め、欧州へバックパック旅行に向かいました。出発前はパリのフランス料理屋で修行しようと思っていたのですが、勇気がなくレストランの門を叩くことができず仕舞いでした。 一人旅をしていて、正直全く楽しくなかったんです。だけど折角ヨーロッパに来たんだから、可能な限りヨーロッパの国々を見て回ろう、と忙しない旅行を続けていました。まさにスタンプ集めのバックパック旅行です。
そんな旅行中のある日、ドイツ人の女の子に、「なんで旅に来てるのに、あくせく旅行を続けているの?」と言われた一言が心に響き、この旅行に意味を見出せなくなりました。また、貯金の残高も目減りしていたため、日本に戻ることにしました。 帰国後、フリーター生活に終止符を打ち、23歳の時に地元 滋賀にある父親の店で働くことにしました。結果3年間父親の店で働くこととなりましたが、その間も海外で働きたいという気持ちを抱き続けていました。
ベリーズの職業訓練学校で料理を教える
海外で働きたいという思いから、単なる旅行ではなく、青年海外協力隊を通して海外に長期滞在することを決意しました。漠然とアフリカへ行きたいと思っていたため、タンザニアでの赴任を希望していましたが、当時タンザニアの情勢が悪化していたことが原因でタンザニアへの赴任は不可能となりました。その後、JICAとの面接の際にJICA職員の方から「ベリーズに行ってください」と言われました。ベリーズという国がどこにあるかも知りませんでしたが、その場で快諾しました。面接が終わった後、近所の本屋でベリーズの場所を探しました(笑)。
希望していたタンザニアへの赴任は実現せず、全く知らなかったベリーズという国に赴任することになりましたが、正直赴任する国はどこでもよかったんです。大義名分を持って海外へ飛び出したかったという気持ちが強かったので、純粋に海外で働けることが嬉しかったですね。そして26歳のときに、ベリーズに派遣員として赴任しました。青年海外協力隊として海外に派遣された際には、自分にやるべき仕事が準備されているとばかり思っていましたが、現実は異なるものでした。
ベリーズに赴任してから半年の間、全く仕事がなく、やることがなかった私は精神的に参っていました。自分の仕事は自分で創出しなくてはいけなかったんです。
やることがなく精神的に参っていた私を見かねて、ベリーズの職業訓練校が学内に料理コースを新設してくれたんです。そうして13歳~16歳の少年少女向けの職業訓練校で私は料理を教えることとなりました。
ただし、実際に料理コースが開設されたものの、生徒数はたったの一人。それでも私は落ち込むどころか、何も仕事がなかったところから、料理の技術を教えるべき生徒が一人でも出来たことで、非常に嬉しかったですね。
授業が始まると、徐々に生徒も増えてきました。一年間かけて生徒たちに料理の技術を教え、彼らが就職するのを見届けた後、不思議と自分の中で何かが燃え尽きてしまいました。残り半年の任期を満了するか、延長のするか迷った挙句、任期を半年短縮して日本へ帰国しました。帰国後、友人の飲食店で数年間働くこととなりましたが、日本に帰国してからもなお、海外で仕事がしたいという思いは冷めることはありませんでした。
ベリーズで経験した大きな挫折
日本の飲食店で働いていましたが、海外で働きたいという思いは消えませんでした。実家の親が経営する店を継がず、友人の店で働くことを辞め、2006年にベリーズにあるホテルの調理師として働くことを決意。海外で働きたいという気持ちに加え、当時の私は自分ひとりの力で何か挑戦したいという気持ちもありました。様々な飲食店で経験を積み、ベリーズでの生活経験もあった私はベリーズのホテル調理師として、問題なく働けると考えていました。
ベリーズに帰ってきて、いざ仕事が始まってみると、今までの仕事とは全く違い、キッチンのスタッフ全員で働くことの難しさを感じ、また周りのベリーズ人従業員と良い関係性を構築できず、新しい仕事にうまく馴染めませんでした。正直、働く前までは、この仕事は「出来る」と思っていたのですが、次第に「出来ない」と思い込んでいくようになったんです。想像だにしていなかった、大きな挫折でした。
この挫折を通して、もうここでは働けないと思い、辞める旨を上司に伝えたところ、もう少し頑張ってみるよう言われたため、少しの間働きました。しかし心情は変わらず、結果ベリーズのホテル調理師を辞めることとなりました。今思えば「もう少し頑張れよ」と自分に対して言いたいところですが(笑)。当時は夫婦で一緒にカナダで住む、という夢を抱いていましたが、再就職先は決まっておらず、日本に帰国するか、海外でこのまま生活を続けるかについて悩んでいました。
グアナファトに自分の店を持つ
次働く場所は、ゆっくりできる所がいいなと思っていた私は、ベリーズのホテルで働いていた時の上司に、次の職場について相談しました。「メキシコのグアナファトという町はとても素敵な場所なので、そこで仕事するといいよ」と上司にアドバイスして貰ったため、家族を連れてメキシコのグアナファトに向かいました。Vacation Rentalという中期滞在者向けの宿泊施設に滞在し、家族で住む家を探す日々が始まりました。グアナファトに到着して一ヶ月が経った頃、貯金が徐々に尽き始め、またグアナファトでの住居も未だ決まっていなかったことから、焦って仕事を探し始めました。
Leonにある日本食レストランに問い合わせし、Mexico Cityのホテルでの仕事も考えましたが、いずれの職場ともタイミングが合わず、働き口が見つからなかったため、「それなら、自分で店をやるしかない」と腹を括ったんです。正直今振り返ると、当時の状況で店を立ち上げるなんて無謀でしたが(笑)。店をやろうと決意したものの、当時はやっと家族一緒に住める家を見つけたところでした。住環境は決して良いとは言い難く、自宅に帰るのがとても嫌で、毎晩のように家族と夜遅くまで散歩する日々を送っていました。
中々店舗物件が見つからず、店舗で打ち出すメニューのアイデアも固まらない状態で、貯金も尽きてきた頃、プエルトバジャルタに家族全員で向かいました。2008年の正月の頃です。ベリーズでホテルの調理師として働いていた頃には、綺麗なホテルに寝泊まりしていたにも関わらず、旅行先に家族3人でホステルに宿泊し、リゾート地で屋台のタコスを食べるような生活を過ごしており、当時の生活は非常に苦しいものでした。プエルトバジャタからグアナファトへ帰る日の朝、一人でプエルトバジャタの町を物件探しも兼ねて散策していたんです。すると、「デリカテッセン」(*注:サンドイッチや持ち帰り用の西洋風惣菜を売る飲食店)スタイルの飲食店を見つけました。
滋賀にある実家の店で付き出し用の大皿料理を担当していたことや、頻繁に買い出しへ行っていた京都の錦市場のお惣菜屋さん、そしてよく食べに行った地元のお惣菜屋さんのイメージが繋がり、「このスタイルで、店をグアナファトに立ち上げよう!」と突如閃めいたんです。そしてグアナファトに戻り次第、グアナファトで目をつけていた物件(現デリカミツ店舗)を急いで契約し、商品を陳列するためのショーケースをメキシコシティに買いつけに行きました。目当ての物件を契約し、ショーケースを調達した後、すぐにデリカミツをオープンしたんです。
惣菜料理をメキシコに、そして世界へ
グアナファトにデリカミツをオープンして、今年で7年になります。2013年にはサンミゲル デ アジェンデ(San Miguel de Agende)に店舗展開も行いました。オープン当初はお客さんが来なくて大変だったし、サンミゲルへの店舗展開時にも様々な苦労がありましたが、現在は両店舗とも順調に営業を続けております。
今、メキシコだけでなく世界中で日本食ブームが巻き起こっています。さらに日本が打ち出したCOOL JAPANの後押しもあり、日本食を世界に広げていこうという流れがあります。寿司をはじめ、懐石料理やラーメン等が世界的に人気ですが、私の経営するデリカミツでは惣菜料理を提供しています。海外の日本食レストランでは惣菜料理を目にすることは現状皆無に近く、惣菜料理の海外での知名度は他の日本料理に比べまだ劣っていますが、惣菜料理は日本が誇る、日本食の一つのスタイルだと私は思っています。
今後は日本の惣菜料理をメキシコ、そして世界に広めていきたいと考えていますが、まずはメキシコ国内で事業を展開して行きたいと思っています。日本から離れて飲食店をしてみたい、と思っていても、メキシコをはじめ海外で飲食店を経営するということに対して不安があり、挑戦できない人達に対して、デリカミツという存在と、私がグアナファトの7年間で得たノウハウを提供することで、自分以外の誰かの夢や憧れを実現していきたいと考えています。
先日、お店に来られたお客さんが当店の惣菜料理を食べてくださった後、こう言ってくださったんです。「私は今までファストフードを食べて生きてきたのですが、デリカミツの食事を食べて、今までの食生活がとても恥ずかしくなりました。素晴らしい食の在り方、食べ方を教えてくれて有難うございます」学生時代とは違って、仕事をしていると他人からダイレクトに感謝されること、褒められることは中々ありません。飲食店を経営する、飲食店で働くことで、このような言葉をかけてもらえることは多く、今の仕事に対して非常にやり甲斐を感じています。海外で日本食を提供する、というのは素晴らしい仕事だと私は思います。
海外で挑戦したい人々へのメッセージ
挑戦してみるべきだと思います。ただし、開業資金や現地の情報収集、現地に住む日本人にコンタクトをとる等して事業を開始する前の事前準備は必須です。私の場合はグアナファトで何もない状態から事業を始めたため、地盤がなく多方面で非常に苦労しましたが、私が味わったような苦労はわざわざ経験する必要はないと思っています。
そして海外に行くのであれば、貴方が最も行きたいところに行くべきです。自分が生活してみたいと思う国や街で生きるということは、日本で会社員をしながらでは出来ないことですからね。先日日本に帰国した際に、旧知の仲間や知り合いたちと会ったのですが、多くの友人は私がメキシコで飲食店をしていることに対して、認めてくれませんでした。なんでメキシコにいるの?日本に帰ってきたら?そんな言葉を何度も言われました。
次第に、「俺って何してきたんだろう?」という思いが芽生え、打ちひしがれました。「自分のやってきたことは間違いだったのか?」メキシコに帰ってからも、そう考えるようになり、モヤモヤした日常を送っていましたが、ある日、信頼できるメキシコの友人にこの事を相談したところ、こんな回答が返ってきました。「家族と幸せに生活が出来て、自分の店があって、お客さんも沢山いる。何が不満なんだNoriは?分かってくれない人には、一生分かってもらえないと思う。それはそれで仕方がない。悩んでる時間があれば家族と一緒にご飯を食べた方がよっぽど有意義だよ」
確かに、自分の妻や子供が現在の生活に対して文句を言ってるのであれば問題だけど、この友人の言葉を聞いて、今十分に私たちは幸せなんだと再確認できました。海外に出る一歩はときに重たく、また海外に住んで何かに挑戦したとしても、思うように周りの理解を得れないことがありますが、それでも私は海外で挑戦する魅力、価値は大いにあると思っています。日本とは違うリスクや難しさがあるのは事実ですが、海外で挑戦したいと考えている方々には、ぜひ挑戦してみるべきだと、私は真摯に思います。
お名前:青柳 正則さん
お仕事:Delica Mitsu オーナー
コメント:海外の日本食レストランで働きたいと考えてらっしゃる方がいましたら、是非ご連絡下さい。
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