「親方」と慕われる日本人社長 波乱の仕事遍歴に迫る

グアナファト州はレオンで、自動車関連工場の機械の据え付け事業を行う岸田組の社長、岸田貢一氏。「親方」の愛称で親しまれ、「家族」と表現するほど愛着を持った会社と社員を15年間に亘って守り続けてきた彼の半生はいかに…?!波乱万丈の仕事遍歴に迫りました。

「親方」の幼少期は、おねしょばかりの「泣き虫坊主」

 山口県岩国市に、3人兄妹の長男として生まれました。小学校低学年の頃はおねしょばかりしていた泣き虫坊主。小学生の頃の記憶ってあまり鮮明じゃないですが、母親がおねしょを確認しに来ていたのはよく覚えています。母親がテニスの元国体選手だったこともあり、兄妹揃ってテニスをやっているテニス一家でした。僕自身も小学生の頃にテニスを習い始め、中学生まで続けました。

 高校でもテニスを続けようと思っていたのですが、先輩に無理やり陸上部に入れられ、背面跳びやハードルをやっていました。しかし、ふざけてウォーミングアップなしで背面跳びをしたときに骨盤を怪我してしまい、運動を辞めざるを得なくなってしまいました。もともと数学が大嫌いで、午前中に数学がある日は遅刻して行き、午後に数学がある日は早退して帰るような徹底ぶりでした。そのため大好きな運動はできないし、大嫌いな数学には苦しめられるしで、段々と不登校になっていきました。結果的には自分の意思で退学届を提出し、1年で高校を中退しました。

数学嫌いで高校中退、憧れのハワイへ

 高校を中退したことが親戚に広まると真っ先に、ハワイにいた叔母から「ハワイに来て、語学学校に通いなさい」と連絡が来ました。中学生の頃からハワイに行きたいと思っていたので快諾し、単身ハワイに渡りました。しかしハワイでの素行が悪かった僕は、強制送還になる直前に、領事館に勤めていた叔父に促されて日本へ帰国したのでした。

 帰国後は近所のポンプ屋さんで井戸を掘る仕事をしたり、ガソリンスタンドに勤めたりしました。どれも長くは続かず転々としていた頃、隣の駅前食堂のおじさんに紹介され、鳶(とび)職の世界へ。初めは造船所の足場を作る仕事をしていましたが、自分がせっかく作ったものが取り壊されてしまうのは面白くなく、何か残るものを作りたいと思うようになりました。他の建設現場(野丁場)への異動を申し出て、その後6年間は鳶職として働き、瀬戸大橋の建設にも携わりました。それまで色々な仕事を転々としていた僕が鳶の仕事をここまで続けられたのは、建物が出来上がって行く過程に面白さを感じていたからだと思います。

騙され続け、嫌になったインドネシア生活

 鳶職として働いた後は、父親の仕事についてインドネシアに渡りました。プラントの仕事をする父は、自分が幼い頃から世界中を飛び回っていて、海外で働くことに漠然とした憧れを抱いていました。父親の仕事がひと段落した後、そのまま日系企業の現地採用としてインドネシアに残りました。インドネシア滞在8年目にインドネシア人(華僑)と共に会社を興しました。僕は見積書作成や現場責任者の業務を担っていましたが、パートナーに「いくら利益が上がっているか教えてよ」と言っても、「今度送る」と言うばかりで一向に応じてくれませんでした。何も自分が利益を分捕りたかったわけでなく、単純に自分たちの会社にどのくらいの利益が出ているのか知りたかっただけなのですが…。結果的に、僕はパートナーを段々と信用できなくなってしまいました。

 それ以外にも感覚の違いは多く、特に宗教観には幾度となく驚かされました。現在の事は分かりませんが、当時はその辺に僕のものが置いてあったとすると、全て「アラーからのお恵みだ」と言って持って行ってしまうのです。それも罪の意識なく、やってしまうのです。「ありがたや、ありがたや…」って。こういう価値観の違いや人間関係にだんだんと嫌気が差してきた頃にアジア通貨危機が起き、インドネシア全土で大規模なデモ暴動が勃発しました。日系企業がインドネシアから次々と撤退して行き、すっかり仕事が減った矢先に、メキシコでの仕事の話が舞い込んできました。

地球の裏側でのビジネスは「なるようにしかならない」

 僕が1998年にメキシコに渡ったのは、大型プレスの設置工事のためでした。地球の裏側のメキシコへ行くことには、ネガティブな感情は特に無かったです。新しい仕事をするのは面白そうだし、挑戦してみようと思いました。最初の来墨は出張ベースでしたが、その時にレオンにあるプラサマジョールの映画館のカフェで素敵な女性と出会いました。それが現在の妻です。工事が終わり、一旦はインドネシアに戻りましたが、インドネシアでの生活に嫌気が差していた上に、メキシコで運命の出会いを果たしたので…「メキシコに拠点を移そう」と1999年に決断しました。

 転機が訪れたのは2004年。当時は日系総合商社で専属技師として働いていましたが、個人契約ができなくなるため会社を作ってほしいと言われ、ここメキシコで会社を設立することが決まりました。もともと40歳で自分の会社を持つことを目標にしていて、ちょうど40歳の時に運よくチャンスが巡って来たので、これはやるしかないと思いました。

 会社を設立して4年が経過した頃、メキシコをリーマンショックが襲いました。会社設立当初から現在まで働いてくれている仲間もいますが、彼らに給料が払えない時期もありました。そんな苦しい時期も僕について来てくれた仲間には本当に感謝しています。もちろんその時に支えてくれた嫁さん、家族にも感謝しています。リーマンショックなんていう、自分の力ではどうにもできない外的な要因で苦しんだ時、その時は必死でどう解決しようか考えるんだけど…結局後から考えると「なるようにしかならない」と思いました。

アミーゴ社会で働くということ

 メキシコで会社を経営することの難しさは、いつも感じます。よく騙されたし、社内の人に訴えられたりもしました。他にも日本人と働くのとは一味違うな、と思った経験もありました。例えば、約束の時間に遅刻してきたり、素直に謝るのが苦手だったり…。そうかと思えば、道を尋ねると、その場所を知らなくても一生懸命教えてくれるような、親切なところもあるし…アミーゴ社会だから、一旦友達になると本当によくしてくれる。特に妊婦さんには優しいと感じます。また、家族は本当に大事にしますね。

 メキシコ人と仕事をする上で大切にしているのは、相手を信頼すること。これは国籍や人種に関係なく共通だと思うけれど、日本人にできて、メキシコ人に出来無い事は無い。みんな同じ地球に住む人間なんだから。ほんのちょっとした考え方の違いが行動に現れて、今でも腑に落ちないことが多々ありますが…そんな時は、本当の内面を理解しようと努め、感情を抑えてお互いが納得できる話し合いをするよう心がけています。うまくいかないこともあるけれど…いずれこの椅子(社長室の椅子)にメキシコ人が座る未来が来ても、僕は良いと思いますよ。

15周年を迎えた今、親方が描く岸田組の未来

 うちの会社が地元の他の企業に負けない強みは、お客様が求めている小さなニーズにも応えようとするところだと思います。工程は守るし、出来ないことは「出来ません」と正直に言います。価格競争は激しく、そこだけで勝負をするのは非常に厳しいので、他で勝負していこうと思っています。「いざという時に頼りになり、痒いところに手が届く」そんな企業として精進していきたいです。あとは社員みんなで「安全第一」というスローガンを掲げ、事故を絶対に起こさないという気持ちで、安全管理を徹底しています。

 将来の展望として、岸田組を年商50億円規模の会社にしたいです。そのためにはどんどん新しい事業にも挑戦していきたいと考えています。全てのお客様と社員に心から信頼して頂ける企業を目指して、これからも成長していきたいと思います。

15周年記念パーティの様子!

先日、レオン市内の某ホテルに200名の関係者が集まり、岸田組の15周年記念パーティが盛大に開催されました。その様子をお届けします!

岸田社長のお母様が所属する「高森チンドン隊」が山口県岩国市から駆けつけました。

日本食レストラン「GOEN」によるマグロ解体ショーも実施され、会場は大盛り上がりでした。解体後は、大トロ・中とろ・赤身が参加者全員に振舞われました。

パーティも終盤、愛娘とのダンスを楽しむ岸田社長

これから20年、30年…と歴史を積み重ねて行く岸田組の未来に、今後も目が離せません! 

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