【インタビュー】世界遺産の街で学校を立ち上げた日本人女性

スペインに憧れ、大学時代にスペインへ留学をされた土田さん。会社員生活に終止符を打ち、単身でメキシコに渡りました。現在はグアナファトでスペイン語学校を経営されています。 20年近くグアナファトで語学学校を経営されている土田さんに、グアナファトでのスペイン語留学の魅力についてもお伺い致しました。

お名前:土田 光子さん

お仕事:スペイン語学校『トナリ学院』学長

学生時代、メキシコには興味がなかった

 私は新潟県で生まれ、高校卒業までの時間を新潟で過ごしました。

高校生の時から外国への憧れがとても強く、言語を学びたいという気持ちが強かったため、高校卒業後は大学のスペイン語学科に進学しました。大学在学時にはスペインへ留学したり、語劇際の手伝いなどして学生生活を思う存分エンジョイしていました。スペイン留学の経験を通して、スペインのことが大好きになりましたが、当時は中南米の国々をはじめ、メキシコには興味は全くありませんでした。

大学を卒業後、東京の建設会社に就職しました。社会人になってからも、有志が集まって週に一回スペイン語の先生をお呼びし、スペイン語の勉強会を開催する等していました。

その後、週一回の勉強会だけでなく、大学の夜間コースに通い、スペイン語を学びます。会社員とスペイン語の学習と共に週末はスペイン料理店でウエイトレスとしてアルバイトしていました。そのレストランで偶然メキシコ人と出会ったことがきっかけで、メキシコに興味を持ち出しました。メキシコ人やメキシコ料理に触れたことで、メキシコに興味を抱き始めたんです。

訪れる予定がなかったグアナファトとの出逢い

 20代後半の時、メキシコに興味を抱いていた私は、メキシコに行ってみたいと思い、当時働いていた建設会社を退職し、メキシコへ3ヶ月の短期旅行にいきました。メキシコシティにある日本人宿“アミーゴ”に滞在し、その宿で沢山の日本人と触れ合いながら、メキシコシティの街を観光していました。日本人宿アミーゴは、外国なんだけど、日本人にとってある意味オアシスのような居場所として当時から存在していました。

当初はクエルナバカの語学学校に通おうと考えていましたが、メキシコシティに到着して一週間後、熱射病にかかってしまい、クエルナバカへ行くことを断念し、安静をとってメキシコシティに滞在していたところ、宿が同じだった女の子がグアナファトという街に行くから、一緒に行かないですか?と誘ってくれたんです。

グアナファトという街の存在を当時は知らなかったし、グアナファトへ旅行に行く予定も全くありませんでしたが、なぜか興味を惹かれたため、実際にグアナファトへ行ってみることにしました。

グアナファトに来てみると、想像を遥かに超える美しく素敵な街で、大変驚きました。グアナファト大学でスペイン語を勉強できることを知り、旅行滞在中にグアナファトに住もうと心に決めました。

メキシコに住もうと決心したものの、正直不安もあり、勿論両親に反対されましたが、一度自分で思ったことは行動に移してしまう私の性格柄、日本に帰国してすぐメキシコへ戻ってきました。

日本食レストランを経営した後、グアナファトに語学学校を開校

 予定していた通り、グアナファト大学で一年ほどスペイン語を勉強しました。

大学でのスペイン語学習を終えた後、日本の友人がグアナファトに来るとの知らせを受けました。その時、友人と日本食レストランを始めようと思いついたんです。決断した翌日、バックパックを持ってメキシコシティに食材の買い出しに行き、その一週間後にレストランをオープンさせました。高級な料理ではなく、魚フライ定食や鳥カラ定食などの家庭料理を振舞い、予想以上にレストランは繁盛しました。当時日本食料理屋がグアナファトになかったことも、私の店が繁盛した要因だと思っています。

開店してから2年の間、順調に営業していましたが、1994年にメキシコでテキーラショックが起こったことでメキシコの経済は急速に悪化し、メキシコペソが暴落したことを受け、食材の価格が急騰したんです。またこのタイミングで店舗の家賃が二倍になると大家から言われたため、必然的に店舗を閉じることにしました。

日本食レストランを閉めた後、仕事がなくなった私は日本人と接する仕事がしたいと思い、スペイン語学校を開校することを決めました。1995年の時です。

日本食レストランを2年間経営していたため、グアナファトに住むメキシコ人との交友関係が拡がり、知人も多かったため、知り合いのスペイン語教師を見つけることができ、私が開校した学校で働いてもらうこととなりました。

開校当初、生徒は一人か二人しかいませんでしたが、徐々に口コミを通して世界中からの学生が増え始め、学校が慌ただしくなってきた頃、メキシコ人の先生にこう言われたのです。

「光子が日本語でスペイン語を教えたら?」

ハッとしました。日本人はスペイン語を教わる際に、メキシコ人に教わりたいとばかり思っていましたが、この言葉をきっかけに、私も生徒たちにスペイン語を教えるようになると、日本人がスペイン語を教えてくれる語学学校がある、ということで当校の存在が世間の中で広がりました。

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