【インタビュー】地元 岡山を愛する私のメキシコでの挑戦

メキシコシティを拠点に美容師として活動する“THE HOME hair re-creative ” の代表 川元さん。 地元 岡山で美容師として活躍。 地元 岡山を愛して止まない川元さんが、単身でメキシコへ渡り、地球の裏側で美容師として生きて行くという決断の背景やきっかけをお伺いしました。

学生時代から接客が好きだった

 私は岡山県で生まれました。両親が離婚していたため、父親と祖母、曾祖母に育てられました。 父親は音楽が好きで、ギターが趣味だったので、幼少時から音楽に触れる生活を送っていました。曾祖母は優しくも非常に厳しい方で、幼い頃からメリハリある躾を受け、日本人としての正しい礼儀を教わりました。 幼い頃から早く稼ぎたいという気持ちがあり、高校1年生から地元の飲食店でアルバイトをしていました。当時の店長の人柄に惹かれ、この人のために頑張ろう、という気概を持って、アルバイトながら店の売上を気にしながら働いていました。 「Aさんにはお茶を出そう、Bさんはジュースを出そう」と、厨房の中で働いているスタッフの好みを考えて仕事中のドリンクを出したり、目の前のお客様に満足してもらうべく、目配り気配りを意識していました。 年上の人たちが自分の知らないことを教えてくれることが楽しくて、高校生の時から年上の人と話すのが大好きで、接客が楽しくて好きだった私は、飲食店での接客を苦に感じたことはありませんでした。

 高校を卒業後、早く働きたいという気持ちと、接客が好きだったことから、通信制の美容系専門学校に通うことになりました。岡山で仕事をしながら、学校の関係で年に2,3回大阪へ行っていました。大阪に行った際には、大阪の繁華街でHipHop系のアパレルブランドと出会い、ファッションを通じて友人の輪が広がりました。 大阪で出会った友人がアパレル店を立ち上げた際には、友人の店を手伝わせてもらいながら、夜はクラブへ行って友達と朝まで踊り明かすような日々を過ごしました。 大阪の人の人間臭さや、思ったことをはっきり言うストレートな県民性が大好きで、今でも関西のノリが好きだし、大人になった今も、関西出身の友達が多いです。

「このままの人生で終わりたくない」

 専門学校を卒業し、地元岡山の美容室で働くことになりました。当時の私はHipHopが好きだったため、服装は全身ダボダボのB-Boyスタイルで、勤務先の美容室でも服装はB-Boyスタイルのまま働いていました。そんな見た目の私を雇って頂き、育ててくれた寛容なオーナーや先輩方には感謝の気持ちで一杯です。 私がこの美容室で働かせて頂いた7年間で、店舗は3店舗まで拡大していました。小さいお店が、店舗展開していくさまを目の前で見ることが出来たことと、そして一端の美容師として鍛えて頂き、成長できたことは非常に大きな財産となりました。また、オーナーの方は女性だったのですが、片親だった僕を気遣ってか、たまにお弁当を作ってくれる等して頂いたことは心から感謝してます。

 そうして恵まれた環境にいながらも、25歳のとき、ふと思ったんです。 「このままの人生で終わりたくない」 学生時代から好きだったアパレルの世界で働きたいと思ったため、美容師を辞め、アパレル業界への転向を決意しました。 どうせやるなら、中途半端な店でなく、大きな企業で働きたいと感じました。面接があろうが、関係ない。美容師として培ってきた接客のノウハウと自信があり、誰にも負けない自信があったんです。たとえ何度面接があろうが、それを突破する自信がありました。

年下の上司や同僚に囲まれながら、下積みの日々

 面接を無事突破し、晴れて岡山のBEAMSで働くことが決まりました。 さぁ自分の大好きなアパレル業界で、服を通して、目の前のお客様に接客しよう、と意気込んで出社したものの、まず配属されたのが、店舗のバックルームだったんです。大量の在庫の服が置かれているその場所で、私はひたすら在庫管理やストックの整理を始めました。 さらに、25歳でこの世界に飛び込んだ私の周りにいた上司、同僚は自分より年下の人間ばかりでした。 「美容師での経験もある俺が、絶対に他の同僚、先輩に接客で負けるわけがない」歯を食いしばり、いかに早く表舞台に立たせてもらえるかを考えながら、バックルームでは、「俺がいるからには在庫を取り出しやすい空間にしよう」と必死に目の前の仕事に真剣に取り組みました。

 アパレル業界に憧れて、店舗に働きに来る人は多かったですが、バックルームでの地味な仕事に耐え切れず、一週間、中には一日で辞める人もいました。私は、美容師時代にも、下積みである「シャンプー」等を経験しており、どの業界にも下積があること、そしてその下積を耐える強さを身につけていたので、愚痴を吐かず、真面目に仕事に取り組みました。 数ヶ月後にはバックルームでの仕事っぷりが認められ、表舞台に立たせてもらうことになりました。憧れのアパレル業界の表舞台で接客するチャンスを得たんです。

誰かが作ったものを売るということ

 表舞台に出てからは、それまでの人生で培った接客の力を思う存分発揮し、店内でも有数の売上をマークしました。流石に毎月店内で売上トップ、とまでは至りませんでしたが、十分な売上をあげ、継続的に結果を残していました。 するとある日店長から、 「川元くん、カジュアル部門からフォーマル部門に移ってくれないか?」と言われました。アパレル業界では、この異動は抜擢であり、とても嬉しかったのを覚えています。通常と比べ、異動のタイミングが早く、自分自身も驚いていましたが、兎に角、自分のやるべきことをやろうと意気込み、日々の仕事に打ち込みました。

 ただ、アパレル業界で働いていく中で、杓子定規な経営方針、働き方に疑問を感じ始めていました。 そしてある日思ったのです、「自分の作った物を生業とするのと、誰かが作ったものを売るのは違う」 私は誰かが作った物を売るよりも、自分の手で創り上げるものを生業とした方が楽しいと感じ、給料についても考慮し、悩んだ挙句、美容師へ戻ることを決意しました。

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