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【インタビュー】国際協力への挑戦~JICAメキシコ事務所長 松本仁~

開発途上国への国際協力を最前線で行っているJICA(国際協力機構)。メキシコの地で事務所長を務める松本仁さんの半生と海外遍歴、JICAメキシコの今後の活動に迫りました!

転校を重ね、世界を意識した幼少期時代

(写真:アメリカ・ニューヨークにて、家族で父親の職場を訪問。1978年1月。)

千葉県に生まれました。親が転勤族だったため、中学生までに福岡、東京、群馬、ニューヨーク、千葉と海外も含めて5つの地域に住んでいました。小学6年間で通った学校は4校でした。

ニューヨークでは、東京外国語大学への入学やJICAでの仕事につながるスペイン語との出会いがありました。1970年代当時からニューヨークにはスペイン語のテレビ放送がありました。そのチャンネルで週に1回土曜日に日本語放送があったので、子どもたちはみんな楽しみにしていましたね。スペイン語放送の時にはルチャリブレの中継があって、楽しく見ては学校での話題になっていました。その時に、「スペイン語がわかったら、きっともっと楽しいよね!」と思ったのが最初のスペイン語との出会いでした。ニューヨークでの生活では、日本にはない文化に触れることができ、英語もある程度話すことができるようになったという点で大きな転機でした。この経験がなければ、その後世界に出て仕事をしようと思うことはなかったかもしれません。

大学進学、そしてスペインへ

(写真:遊学先のスペイン・マラガの夏祭りにて。1989年8月。)

日本に帰国後は、親戚のおじさんの勧めで海外の短波放送をよく聞いていました。

日本で一番受信が難しいのは、日本からみて地球の反対側にある中南米の国からの放送です。日本に届くときには電波が弱く、雑音も多い。音質が悪い中でスペイン語を聞き取れたらいいなと思いました。

子どもの頃にスペイン語に出会う様々な機会があったこともあり、東京外国語大学のスペイン語学科に進学しました。

大学4年目に休学してスペインのサラマンカとマラガの語学学校に通いました。マラガで一緒に勉強していた日本人の友人が、今メキシコのケレタロで通訳として働いており、久しぶりに再会しました。一期一会の大切さを強く感じています。

20代のうちに海外で仕事をする!

(写真:出張先のオランダ・アムステルダムにて。1993年4月。)

大学卒業後は無線機メーカーに就職しました。当時は金融系の企業が人気でしたが、物の動きがより分かりやすく見えるメーカーを志望しました。無線機メーカーに就職したのには、子どものころから短波放送をラジオで聞いていたという経験も影響しました。またその無線機メーカーは世界中に事業展開していたので、海外要員を求めていました。そこに就職すれば「20代のうちに海外で仕事ができるかな」と思い、無線機メーカーに海外営業職として就職しました。

4年経った頃、海外駐在のチャンスが巡ってきそうでしたが、最終的に私ではなく先輩が海外駐在に駐在することになりました。次に私に駐在の機会が訪れるのは早くて数年後。そうなると、「20代のうちに海外で仕事をする」という当初の目標を実現できないかなと思いました。

そんな中、電車の宙吊り広告で「日系社会青年ボランティア」というJICAの中南米日系社会に対するボランティアの告知を目にしました。無線機メーカーを辞めて中南米にボランティアに行けば、「20代のうちに海外にいく」という目標も叶えることができ、学んできたスペイン語を使うチャンスもありそうだなと思い、ボランティアの試験を受けました。無事に合格することができ、日本語教師としてボリビアへ行くことになりました。

ボリビアの日本人移住地でボランティア活動

(写真:ボリビア・サンフアン日本人移住地のサンフアン学園にて。1997年5月。)

ボランティアの舞台は、ボリビアの「サンフアン」という日本人移住地。アマゾンのジャングルが生い茂っていた場所を日本人移民が命がけで切り開いた場所でした。私は日本語教師として派遣され、日系人の二世や三世の小中学生に日本語を教えていました。当時の日系人の小中学生の多くは日本語を話すことができ、日本の国語の教科書を使っていました。

印象的だったことは、サンフアン移住地に住んでいた子どもたちが、本当に素直で純粋だったこと。一緒にいて本当に楽しい子どもたちでした。当時のサンフアン移住地は、1950・60年代の日本の田舎の雰囲気がそのまま保持されているような村でした。小さいコミュニティのなかで、子どもたちは大人たちに見守られて大切に育てられていました。そのような環境で育っている子どもたちだからこそ、素直なんだなと思いました。私が中学・高校を過ごしたころの、校内暴力があるような荒んだ社会とは全く違った環境でした(笑)。

JICAに就職、そしてメキシコへ

(写真:メキシコ国立自治大学(UNAM)敷地内にある国立防災センター(CENAPRED)にて。2004年11月。)

ボリビアでのボランティア後、JICAに社会人採用で就職しました。

国によって経済や社会の開発の程度、生活環境が違うということは知ってはいましたが、実際にボリビアのような途上国に滞在して生活してみて、体感することができました。日本の事だけを考えて経済活動をするのではなく、ボリビアのような開発途上国のために何か私ができることをしたい、という思いからJICAに就職しました。

最初は「青年海外協力隊事務局」という部署で青年海外協力隊の選考を担当しました。2年間その部署で働いた後、メキシコへ1回目の赴任が決まりました。

当時のメキシコと現在のメキシコを比べて、大きく変わった点は「インフラ」です。メキシコシティのビル群や自転車専用レーンの設置、UBERなどの配車アプリやシェアサイクルサービスの普及など、大きく変化したところだと思います。

しかし、インフラ以外は目に見えて大きく変わった印象はありません。データを見てみると、確かに国としては経済的に発展していますが、一般市民の収入が大きく上がった印象は、町中を歩いていてもあまり感じられません。貧しかった人は現在も貧しく、庶民の生活の質やスタイルはあまり変わっていないように見受けられます。

モザンビーク・ニジェール駐在

(写真:ニジェール首相(右)とともに、精米機供与式典にて。2013年12月。)

メキシコに4年7ヶ月駐在した後、日本へ帰国。日本で3年働いた後、モザンビークへの赴任が決定しました。

赴任が決定した当初はモザンビークという国の知識がほとんどなかったので、国連が出している「人間開発指数」を見てみました。人間開発指数はある国の開発の程度を数値で表しています。見てみると、モザンビークは当時187ヶ国中184位でした。人間開発指数が下から4番目の国に駐在で行くことは滅多にないので、いい経験になると思いました。

(写真:モザンビーク内戦(1977-1992年)後、放置された戦車。2012年2月。)

モザンビークでの駐在生活が2年経った後、ニジェールへの異動の打診がありました。再び人間開発指数を見てみると、187ヶ国中、今度は下から2番目の186位でした(笑)。モザンビークよりも人間開発指数の低い国に駐在することはあるまいと思っていましたが、更に順位が下の国に駐在することになりました。

ニジェールは世界のなかでも最貧国のひとつ。ニジェール国内には日本の大使館はなく、日系企業もほとんど進出していません。そのためニジェールにいる日本人はJICAかNGOの関係者で、全部で10人ほどでした。

あるときニジェールの首都ニアメで現地の日本人たちと食事をしている時に、新しくできたブティック(雑貨屋)の話になりました。場所を尋ねてみると、「私の家からみて舗装道路のある方向」と説明するわけです。そうしたら全員理解していました(笑)。「君たちその説明で場所がわかるわけ?」と思いましたね。それほど、首都であっても舗装道路も整備されていないような国でした。その様な状態の国に2年半駐在できたというのは貴重な経験でした。

経済社会開発の成熟度を高める協力を

(写真:メキシコ外務省にて、中米総合的開発計画の下での日墨によるJICA中米支援関連プロジェクトのミニッツ署名。2019年9月。)

ニジェール駐在後は、日本で中南米部計画・移住課に所属し、主に日系社会連携事業を担当しました。実は、「移住」という言葉が入っているJICAの部署はもうここだけなんです。日本が以前行っていた移住政策とJICAには深い関わりがあります。

JICAの歴史をたどると、1950年代から日本政府が行っていた移住政策の担い手である「日本海外協会連合会」や「日本海外移住振興株式会社」、それらが統合した「海外移住事業団」に繋がります。その後、移住を担当していた組織と技術協力を担当していた組織などが統合した組織が現在のJICA(国際協力機構)です。

現在は移住政策も移住者の送出もありませんが、昔中南米に移住した人たちの子孫と日本が連携をして様々な活動を活発に行っていくことを目的とした業務に積極的に取り組んでいます。

日本での勤務の後、2度目のメキシコへの駐在が決まりました。以前駐在していたときは、産業振興・環境・保健医療・教育・農業など様々な分野で協力を行っていましたが、メキシコの経済発展が少し進んだこともあり、今は、かつてほど幅広い分野で協力を行ってはいません。今後メキシコが経済社会開発の成熟度をより高めるような協力活動にシフトしています。

実際に我々は自動車産業をサポートする技術協力や、日本の大学とメキシコの研究機関が共同で地球規模の課題を解決するような技術協力の共同研究プロジェクトを行っています。例えば津波被害の軽減や地震発生のメカニズムを調べる研究、バハカリフォルニア半島の乾燥地帯でも成り立つような農業の研究などのプロジェクトを行っています。

今後のJICAメキシコの展望

Photo by Kenji Onodera

(写真:メキシコ中部大地震(2017年9月)の際に日本から派遣された国際緊急援助隊を顕彰するプレート設置と日墨友好公園命名の式典にて、メキシコ日系帰国研修員同窓会のメンバーと。2019年5月。)

メキシコは経済発展を遂げつつありますが、今後もJICAが協力できることは多くあります。メキシコには若者が多いようにみえますが、実は急速に高齢化が進んでいます。昔と違って少子化が進んでいるのに加え、医療の発達によって高齢者が長生きできるようになっています。日本が30,40年かけて迎えた高齢化よりも早いスピードで、メキシコの高齢化が進んでいるところです。日本が長年かけて構築した社会保障制度などの制度構築のサポートをJICAがお手伝いできればいいなと思っています。

またメキシコには日系社会があります。日本とメキシコ日系社会との連携の強化は、最近特に力を入れて取り組んでいます。日本企業が持っている世界に通用するような高い技術やサービスをメキシコに持ち込み、メキシコの抱えている問題の解決につながるようなことを日系社会と一緒に協力してできたら、素晴らしいことです。日系社会は現地のコーディネーターやパートナーとしてビジネスに協力できると思っています。日本企業とかつてメキシコへ移民として来た方の子孫と協力してビジネスを行い、日本・メキシコ間の連携を強化していきたいです。

【amiga編集部からお知らせ】2020年2月メキシコ短期インターンシップを開催!

2020年2月にメキシコで短期インターンシップを開催します!今回インタビューをさせて頂いた、JICAメキシコ松本事務所長にこれまでのご経歴やメキシコでの事業内容、また海外駐在などを含む一般的なキャリアについてご紹介いただきます。さらにスペイン語学習者やメキシコを含む海外に目を向けられている方々に向けて、現地スタッフとのコミュニケーションや今後グローバルに活躍できる人材に必要な要素など、多岐にわたる貴重なお話をお伺いします。

インターンシッププログラムの詳しい内容は下記の記事をご覧ください。

【2月開催】首都メキシコシティと世界遺産グアナファトで学ぶ10日間インターンシップ!

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