【インタビュー】30年をメキシコで生きた日本の料理人

現在はメキシコシティで鮮魚店 肴家(日本食スーパーMikasa内)、らーめん家(デル ヴァジェ地区)、佳み家(日墨会館内)を経営されている川端さん。 日本で様々な料理を学んだ後、メキシコの老舗日本食レストラン「サントリー」に赴任。 メキシコの魅力に駆られ、サントリー退職後もなおメキシコで料理人としてご活躍されております。 川端さんから、海外で料理人を志す方々へのメッセージも頂戴致しました。

お名前:川端 浩さん

お仕事:料理人/飲食店経営者

やはり料理の道に進みたい

 私は東京都の文京区で生まれました。

母親が料理人だったため、中学生の頃から料理は私にとって身近な存在でした。高校を卒業した後、熱海のホテルで料理人の見習いとして働くこととなります。もう亡くなられましたが、伊藤治助さんという師匠の下で、様々な食材の名前や料理のいろはを学ばせて頂く機会を得て、その後、横浜、神保町、新宿で天ぷらや土佐料理等を其々の店で親方から技術を学びながら、料理人としての腕を磨きました。

高校を卒業してから様々な飲食店で修行しましたが、料理人としての生活は不規則かつ長時間労働だったため、机に向かって勉強する時間は全くありませんでした。当時の私は料理以外のことも学んで、色んな資格を取得してみたいという気持ちを抱いていたため、一度料理人の道から外れ、自衛隊に所属することにしたんです。当時の自衛隊では、様々な資格取得に掛かる費用を援助してくれる体制があったことから、自衛隊への入隊を決めました。

入隊すると、私は千葉県の落下傘部隊に所属することになりました。ちょうど成田抗争があった時代です。隊員としての契約期間は本来であれば3年だったのですが、契約を2年間延長し、計5年弱自衛隊員として働くこととなります。契約を延長した理由としては、当時自衛隊は階級社会ですので、新兵時代に上官の地位に憧れ、自分もある程度の地位を隊内で築きたいと思ったんです(笑)。

自衛隊としての生活は、自衛隊員との共同生活で、非常に楽しいものでした。私たちが住んでいた自衛官の寮の中には、お酒が飲めるバーもあり、仲間と仕事終わりにお酒を飲む生活を送ります。自衛隊内でたまに食事会やパーティがあったときには、料理人の経験があった私が駆り出され、食事を振る舞うことも多々あり、私は料理の腕を見込まれたことで、隊内では良い待遇を受けていましたね。

充実した5年間の自衛隊生活を辞めた理由としては、やはり料理が好きだったので、料理の道に進みたいと思ったからです。自衛隊を辞めた後、合掌造りのお店で1年半ほど働いた後、先輩がつくったペンションの食堂で働きました。そして修行時代から付き合いのある仲間が始めた、町田にある美舟という寿司屋を手伝い始めたんです。

メキシコは「とんでもないところ」と思っていた

 町田の寿司屋で働いた後、私は鮎釣りで、3ヵ月ほど遊んでいました。当時調理師会に所属していたので、遊んでいた私は当然所長に呼び出され説教(笑)、サントリーの海外レストラン部へ行くよう命じられました。当時サントリーは海外に飲食店を展開し始めた頃で、すぐに契約成立サントリー赤坂店で1週間研修を受けた後、メキシコシティにある日本食料理店、サントリーへ出向することとなります。海外で働くことを命じられた時には、私はビールが好きなのでドイツやオーストラリアを希望しましたが、タイミングが合わなかったのでメキシコでの赴任となりました(笑)。

メキシコに来るまで、私は日本語以外の言葉は勿論話せず、海外での生活経験も無かったにもかかわらず、海外、メキシコでの生活に対して拒否反応は全く示しませんでした。メキシコに行けば、アカプルコの海に遊びに行けると思うと、とてもワクワクしたんです。契約期間も3年間と言われていたため、3年くらいだったらいいかなと思いました。メキシコでの赴任を言い渡された後、本屋へ向かい、メキシコのガイドブックを買ってページを開いてみると、サボテンの写真ばかりが目に飛び込んできて、

「とんでもないところに行くんだなぁ」と思ったことをよく覚えています(笑)。

そして私は、1981年にメキシコシティに到着しました。

当時サントリーはメキシコシティのデルバジェ地区で1店舗営業しており、アカプルコ店をオープンしたところでした。予想以上に日本人のシェフの方々が働かれており、7,8人の日本人シェフが当時メキシコのサントリーで働いていたんです。

働き出した直後にぶつかった壁は、やはり言葉。スペイン語でした。コミュニケーションが取れない中での仕事には大変苦労しましたが、日々のコミュニケーションを通して徐々にスペイン語に慣れていきました。

1980年初頭、既にメキシコでは日本食ブームに火がつき、かつ日系企業はバブルの真っ最中で、500人以上が集まるパーティが2日おきに開催される日々を送っていました。それはもう毎日大忙しでしたが、同時にチップの収入も今日とは桁違いで、時には驚くような額のチップを一晩で頂くこともあったんです。

気づけばあっという間にメキシコでの3年間の任期を終えましたが、私はメキシコに残ることを決めました。メキシコでの生活は毎日が楽しくて充実しており、日本に帰りたいとは当時全く思わなかったんです。

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