【メキシコで奮闘する若き異色の料理人】坂本和也の人生

北海道で生まれ育ち、建築の道へと進んだ青年が、なぜメキシコで働くことになったのか。カリブ海への出店を夢を描く坂本さんに、これまでの波乱万丈な人生と、メキシコでの生活について迫りました。 記事の最後には、料理人やシェフの方々の求人情報についても明記しています!

北海道に生まれ、テレビの大道具に憧れるも建築の道へ

私は北海道釧路市内で生まれました。小学校3年生の時に釧路から札幌へ転校し、高校卒業までを札幌市内で過ごしました。幼少期は、ひたすらに習い事に没頭していましたね。好奇心旺盛な子供だったと思います。

スピードスケート、アイスホッケー、ヤマハ音楽教室、習字、水泳、サッカー。勉強には中々身が入らない少年でしたが、両親の理解と支えによって、幼いながらにやりたいと感じたことに対しては、何でも経験させてもらいました。

小学校では釣り部に所属し、少年野球とスキーに没頭しました。中学校ではスラムダンクの「みっちゃん」に影響を受け、バスケ部に所属し、高校受験の為に塾と家庭教師も掛け持ちしていました。高校では札幌市立の高校に進学し、ラグビー部で日々汗を流していましたね。高校に通いながら、予備校に通う生活でしたが、忙しい日々であるにも関わらず、ストレスは感じませんでした。子供にお金や教育を惜しまず投資してくれる両親だったので、父と母には心から感謝しています。

高校卒業後の進路を考え始めた時分、映画やドラマの大道具をやりたくて、東京の専門学校に進学したかったんですよ。小さな頃から、姉が居間でみていたTVドラマを、姉の隣にくっついてよく見ていたんです。年を重ねる度に、テレビに映る美しい女優たちとお近づきになりたい、彼女たちと一緒に働ける日々は最高なのでは、と信じていたんです。頭の中がお花畑ですよね(笑)。物づくりは当時から好きだったので、映像の世界について調べている内に、大道具の仕事に行き着いたんです。

しかしながら、教育熱心だった両親からは、専門学校に進むことを猛反対されたため、進路について再考したんです。毎日のように新聞に挟まれていた新築マンションの図面を眺めることが、当時好きだったので建築学科のある大学に進もうと考えました。日本大学と明治大学の建築学科に進もうと思っていて、AO入試を受けたんです。物理、数学、英語の三教科の試験を受けたのですが、見事に英語だけ良い点数を取れず、これらの大学に不合格。滑り止め受験はしていなかったので、不合格の通知を受け取った後は、途方にくれていました。これ以上、嫌いな勉強に拘束されたくない。ただ大学卒業資格は取らなくてはならない。色々な大学を調べていると、京都に建築学科がある大学で、まだ受験申込の受付をしていたところを見つけたので「ここだ!」と思って受験したんです。そして無事、受験に合格して北海道から京都へ引っ越すことになりました。

インテリアの設計を学びながら、京都の居酒屋でバイトする日々

大学生活は、遊んでばかりの生活でしたね(笑)。愛車のバイクに乗って旅行したり、バイト先の友達、大学の友達と飲み会に明け暮れたり。同志社女子大学の学祭も行ったなぁ。アルバイトで稼ぐお金は全て湯水のように使っていました。

アルバイトでは、片手でジョッキ10杯を運ぶような、超繁盛店の居酒屋でホールとドリンカー、キッチン補助など全てのエリアで働いていましたね。この頃から忙しい店舗で働くことに慣れていましたね。そしてバイト先の仲間と一緒に、月一回は客単価が1-2万円を超えるような夕食を食べるようになって、食事やサービスのセンスを、意識しないままに育んでいました。

ある日、店長が変わったタイミングで、当時バンド活動もしていて髪を染めていたこともあり、黒髪に戻さなかった私は、バイト先をクビになったんです。それからアラビアンロックというエンタメ系の居酒屋で働くことになりました。女の子がアラビアンな服を纏い、来店するお客さんに魔法をかけるんです。楽しそうでしょ?(笑) そこで1年間働いたんですが、会社の経営が傾いて店舗が潰れました。その後、京都の駅ビルに在った木村屋本店の、もつ鍋屋さんのオープニングスタッフとして働くようになります。時には芸妓さんを呼んで、100人以上の団体を捌いたりもしていましたね。これらの様々な繁盛店で働いた経験から「忙しい店舗をまわす」ことには慣れていて、今でも楽勝だと思っていますが、いま私がメキシコでやっている仕事は、キッチンをまわすことだけが役割ではないので、「昔は楽だったなぁ」と日々感じています(笑)

「世界をもっと見てみたい」旅先の屋久島での出会いと転機

アラビアンロックが潰れて、木村屋本店で働くことになる前に、自転車で関西から屋久島まで一人旅をしてみたんです。以前も友人とバイクで北海道でツーリングをしていたんですが、地図を片手にアクセルを握れば目的地に到達する感じが、私にとっては達成感を感じれなくて。どことなく、もっと大きな達成感を感じたいと思って、屋久島へ向かいました。

屋久島では、私と同い年の旅人二人と朝焼けの屋久杉を見にいきました。その道中、どの国に旅するのが楽しいとか、色んな話をしましたね。その翌日、同じ宿に泊まっていた年配の男性とも話す機会があって、そこで「若いうちに世界を見た方が良い。歳をとってからじゃ、人生は変わらないから、今のうちに視野を広げた方が良いよ」と言われたんです。その方は鹿児島の大学で世界遺産を研究していた教授だったことを、名刺を頂いてから知りました。

屋久島での出会い、そして自転車を通じた一人旅を経て「世界をもっと見てみたい」と思うようになって、色んなことを調べ始めました。世界一周の周遊チケットについて調べたりする中で、ピースボートの存在を見つけたんです。スリランカやカナリア諸島、ニカラグア。これまで一切聞いたことのない、全く知らない国々へ訪れる機会もある。まさに鹿児島の教授が仰ってくれたような「視野を広げること」に繋がると思って、ピースボートに乗船することを決めたんです。

もちろん、当時は就職活動真っ只中。就職氷河期のど真ん中だったため、不安もあってリクルートスーツを着て、京セラドームで開催される就職説明会に訪れたこともありました。しかし、屋久島での旅や、ピースボートへの憧れと期待を天秤にかけて、私は就職活動を辞めることにしたんです。

ピースボートを通じた世界一周で、人生は変わった

ピースボートでは、最も安価な窓無し四人部屋に滞在することになりました。1,000人程度の人々が乗船するのですが、乗客の約半分が当時の私と同様に、20代の若者でした。大学を留年して彷徨ってる学生、総合商社への内定が決まっている学生など、多種多様な人々が混在してましたね。ちょうど私が乗船したのが、ピースボートとしての航海70回記念乗船だったので、通常より安い価格で乗れたんですよね。

お金のない学生は箱でビールを買い占めて、デッキでお酒を片手に夜な夜な語り合う時間を過ごしていました。氷が手には入らないので、いつもぬるいハイネケンを私も飲んでましたね。訪問した国々でも、沢山のカルチャーショックや、見聞を広める体験が沢山ありました。中南米でいうと、キューバ、ニカラグア、グアテマラ。そして私が今生活しているメキシコにも訪れましたね。実はメキシコのエンセナーダが、ピースボートで訪れた最後の渡航地でした。ピースボートで出逢った、今でも忘れられない女性と旅の道中で恋に落ちたことは、いまも心に焼きついてる大切な思い出です。

ピースボートに乗って、色んな人たちの人生が変わっていくのを目の当たりにしました。降船後に留学に向かう者、起業する者、旅に出る者。それぞれが新しい人生に向かっていく中で、私も当時の彼女と生活を共にすべく、東京に拠点を移すことにしたんです。教育熱心な両親からは、もちろん「一般就職しなさい」と言われ続けていましたが、卒業してから当然のように企業に勤めていく周りの学生を横目に、私は1,2年遊んでから仕事した方が、就職した時に思いっきり仕事に没頭できると考えていたんです。

恋に落ちて、東京へ

東京は要町。池袋から歩いて30分のこの街は、当時の彼女が通っていた大学から交通の利便性もあり、ここで二人で生活をスタートしました。今思うと、全ての選択の中心は、その彼女でしたね(笑)。2011年2月に東京へ引っ越して、金銭的にも余裕がなく、すぐに働き先を見つける必要がありました。飲食店で仕事を探していて、3月末には焼き鳥ともつ鍋の新店舗のスタッフ募集案内を見つけて、ここで仕事にありつくことになりました。23歳から26歳までを、こちらの店舗を運営する会社でお世話になることになります。当時の店長にはとても可愛がってもらって、信頼してもらっていました。続々と開業していく新店舗の立ち上げに、私とその店長二人で取り組んでいましたね。

26歳で当時付き合っていた彼女との結婚を視野にいれ、フリーターを辞めようと思ったんです。飲食が自身のプロフェッショナルになりつつあると感じながらも、飲食系の会社で社員として働くことの厳しさや多忙さは身を以て理解していたことに加え、両親にこれまで沢山投資してもらって学んだ建築系の知識を活かさないと申し訳ない、と考えてリフォーム会社に就職することにしたんです。

沢山の面接と、不合格の嵐を経て、ようやく就職先が決まったにも関わらず、当時の彼女と別れることになります。彼女は海外で生活することを決意していて、自分も一緒についていく、いつまでも待ってる、と何度も言ったんですが「それだと頼っちゃうから。自分の力で頑張りたい」と言われ、なす術なく、袂を分かち合いました。

失意のどん底から、東京の浅草近郊にあるリフォーム会社での仕事が始まりました。ここではリフォームを希望するお客様から予算や希望形態をヒアリングして、そこから設計して職人の方々と一緒に創り上げていく仕事をしていました。仕事を受注すると、スケジュールを作成し、職人の方々を集めて、現場に向かいます。私は職人ではなかったのですが、いつも職人の方々の現場作業に混ぜてもらって、職人の仕事をよく教えてもらいましたね。これらの経験が、今にも活きています。

寂しい生活が続いていましたが、それを振り払うように日々仕事に没頭していましたね。図面をひくこと自体は好きだったし、職人の方々の仕事を学べることも楽しかった。思い返すと、非常に忙しい毎日でしたね。朝6時に自宅をでて、終電がない時間に自宅に戻って、数時間だけ家で寝るような日々でした。

結局、3年ほどこちらの会社にはお世話になりました。その間、自身の中で「海の家」で働いてみたい、という気持ちが年々強くなって、これまでの自身の経験も活かせると感じていたんです。当時の社長にも可愛がってもらい、ゴルフにも釣りにも駆り出されていたので、Encounter Japanの中で唯一、ゴルフでも活躍できる日本人社員です。メキシコの皆様、ぜひゴルフにも誘ってください(笑)。

リフォーム会社を退職し、海の家とEncounterに出逢う

前職のリフォーム会社を退職して、数ヶ月間は友人と海外旅行に行ったりしていたのですが「海の家で働きたい」という想いを実現すべく企んでいました。ピースボートで出逢った方の旦那さんが、海の家を運営する会社の実店舗で働く店長さんだったんです。このご縁から、色んなことが進み出しました。

実際に海の家で働くことになってからは、6月くらいから海の家の建築が始まり、7,8月は店舗の運営、そして9月には解体するようなスケジュールで夏の間は逗子の辺りに滞在していました。海の家でも、キッチンにオーダーを通して、ホールも統括して、という学生時代から培ってきた経験を最大限に活かしていましたね。昔から憧れていた海の家で実際に働いてみると、最高に楽しかったです。

一方で、海の家で働き始めた時、たまたま渋谷のBar Encounterで(2020年2月閉店)飲み会があって、そこで「この店でも働かない?」となって、渋谷のEncounterで働くことになりました。海の家の期間は逗子を中心に働いて、それ以外の期間には、渋谷のEncounterと、羽田空港のOCHAWAN(2019年3月閉店)で働く日々を送っていましたね。

そして社長の西側と、2018年12月に不思議な出張に同行することになりました。奄美大島、そして弊社のパートナー企業でもある東シナ海の小さな島ブランド会社がある薩摩川内市 甑島、頴娃町、枕崎など鹿児島県の様々な場所へ向かいました。当時、日本の他都市で新店舗を開業するにあたって、新店舗の立ち上げをやってみるか、もしくはメキシコに行ってカリブ海で働くか、という二択に迫られていました。結局、いまは海抜2000M近い内陸の高地で働いてるのですが(笑) 色々と考えた結果、メキシコに渡航して現地で働くことを決めたんです。

「これまでの経験」を糧に、F&B事業の責任者へ

現在はIzakaya GOEN, Delica Mitsu、そしてRoygent Parks Queretaroの三箇所を移動しながら、Food & Beverageの部門責任者を務めています。メキシコに到着した時には、レオン市内にあるIzakaya GOENで仕事を開始したのですが、当時は前 シェフの宮内耕平さん、インターン生だった相原くん、そして現在は戻ってきてくれて一緒に働いてくれている小川くんと三名の日本人が勤続していたのですが、私が到着してすぐに退職、インターン期間終了などあって、いきなり私にどっと責任がのしかかって大変でしたね。スペイン語がわからない状態で、料理学校を卒業したメキシコ人のスタッフに対して教育、指導していかなければならかった日々は苦悩の連続でした。

そんな状況でも、私はこれまでの経験や知見を活かし、過去に働いてきた勤務先、それぞれのレストランで学んだことを振り返り、そして自身でも勉強しながら目の前の仕事に取り組みました。お陰様で、コロナ期間を経て、現在は各店舗売上も大幅に回復しており、むしろコロナ前よりも美味しい食事とサービスを提供できていると自負しています。

自身の人生を振り返ると、人生って無駄なことなんてないなと思うんです。その時々には、将来どこで何が繋がるのか、いつ活きてくるのかは分からないけど、間違いなく人生のどこかで経験や学びは必ず活きると感じています。まさに「経験はやはり大事」ですよね。多種多様なタイプの、色んな形の手札のカードを持っておくことが、変化の激しい現代だからこそ、重要だと身を以て感じています。

メキシコに来てみると、意外に都会だし生活面の苦労は感じませんでした。一番大変なのは、やはり語学ですね。スペイン語を通じて、指導したり指示を出すことの難しさとは今も日々対峙しています。日常的に課題や問題が発生するので、中々語学の勉強に時間を費やせず、もどかしいのも事実です。その一方で、徐々に人間関係が深まっていくことと、語学力の向上を通じて、厨房内で働くメキシコ人の仲間との意思疎通が日々できるようになっていくのが楽しいし、嬉しいですね。言葉の問題で意思疎通できない時でも、メキシコ人の皆も私の伝えたいことを理解してくれようとして、コミュニケーションを取ることに必死になってくれることも嬉しいです。

メキシコ人と働いていて、彼らの良いところだなと感じるのは、失敗を引き摺らず、負のオーラを続かせないことですね。所謂「心の切り替え」が非常に上手だと感じています。日本人だと、失敗を引きずってミスが連発することがよくあると思いますが、メキシコ人では全くないです。反面、真面目にやるべき、改心して欲しい時に、真面目にやってくれない等のことも多々あります(笑)

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