【インタビュー】コロナ禍での人生を変える転職。メキシコでの新たな生活を前向きに楽しむ日本人女性

2020年、広島県福山市役所からメキシコの大手保険会社に転職し、現在メキシコシティ在住の宮地清子さん。これまでのご経歴、転職のきっかけ、コロナ禍での渡航、メキシコでのお仕事・生活の様子をお伺いしました。

大学受験時に感じたスペイン語の魅力

私は広島県福山市で生まれました。中学校・高校は女子校のカトリック系私立校に通いました。中学時代の夏休みには3週間ですが、イギリスで英語を勉強しました。

父親が東京出身で、親戚もおり、幼少期から東京を訪れる機会があったため、大学受験する際には自然と東京に行くことを考えていました。

両親からのアドバイスで、地方から東京の大学に進学する際には附属校がない大学の方が、友達が出来やすく馴染みやすいのでは、と言われていたこともあり、附属校がなく、4年間、都会のど真ん中で過ごせる上智大学は志望大学の一つでした。

上智の外国語学部は、どの言語を学ぶのか、出願時に前もって決めておく必要がありました。高校の先生からは「これからは中国語の時代です!」と言われたものの、上智には中国語学科がありません。それぞれの国や語学に対してのイメージ、話者の数などを考えて、消去法で最後に残ったのがスペイン語専攻のイスパニア語学科。他にもいくつかの大学を受験しましたが、結局受かったのはイスパだけ。実は特に深い思い入れがあったわけでもなく、成り行きでスペイン語を勉強することになりました。

入学したイスパニア語学科は60人ほどのアットホームな雰囲気で、入学してからは在学中に留学をしようと決めていました。同じ学科には帰国子女で英語はもちろん、スペイン語が堪能な同級生も多く、刺激を受けながらも授業についていくのも必死でした。長期休みには東南アジアなどに海外旅行をするなど、充実した学生生活を謳歌しました。

留学や東京での就職を経て、地元広島で市役所での仕事をスタート

大学3年生の終わりに、入学当初から希望していたスペイン・アルカラ大学で1年間、勉強することが出来ました。留学終了後には都内の測量機メーカーに内定を頂き、海外営業部に配属されて欧州担当として4年間ほど働きました。

そのメーカーを退職後、香港中文大学で北京語を少し勉強しました。英語が中々綺麗に話せないことがコンプレックスであったこと、元々中国語に興味があったことが理由で、そのどちらも出来る香港を選びました。ただ、香港の気候に私の体が合わなくて。蒸し暑さと冷房との温度差に体をやられて、体調が悪いことも多かったですね。

大学進学して以来、東京や海外で時間を過ごすことが多かったのですが、2005年1月に香港から広島県福山市の実家に戻りました。その時点では、地元福山市でスペイン語を活かして仕事することは想定していませんでした。ただ何かしら海外とのつながりは持っておきたくて市の国際交流協会に、会員登録をしに行きました。それが偶然にも市役所でスペイン語が話せる相談員が離職した時期と重なり、福山市役所で外国人生活相談員として働くことになりました。

福山市には工場で働く日系ブラジル人、ペルー人が多く、相談内容は、保育所や学校、納税や年金、ビザや生活保護の相談まで多種多様なものでした。ポルトガル語は仕事を始めてから覚えました。外国語の広報紙も作成していました。沢山の方々が相談に来る日もあれば、誰も立ち寄らない日もあり、忙しさはまちまちでした。

「なぜここで働いているのですか?」という言葉にハッとする

そんな日々を10年以上送っていた頃、東京オリンピックが開催されることになりました。地元広島のマツダの工場があるグアナフアト州とのご縁から、広島県がメキシコのオリンピック事前合宿の受け入れ地に決まりました。そのため、メキシコオリンピック委員会の方々や、様々な競技のスポーツ関係者が広島県を訪れることになりました。それまで、私はメキシコとの関わりは全くなく、初めてメキシコを知る機会がある日突然現れたというわけです。

メキシコからの視察訪問に際して、プロ通訳が常に同行されていました。私はプロではありませんが、福山市役所で唯一、スペイン語が話せたため、ヘルプとしてお手伝いをすることが出来ました。そのプロ通訳の一人に「英語もスペイン語も出来るのに、なぜここで働いているの?もっと色々やってみたらいいのに」と言われてハッとしたのです。

ちょうど私も40代を迎えた頃で「このままここで人生を終えるのは、絶対に違う」と感じており、より刺激的で面白いと感じるようなキャリアチェンジを求めていた頃でした。

ただ、福山を出て、以前のように都会の企業で働くことは選択肢にありませんでした。

そんな中、令和に変わるために10連休となった2019年のGW、スペイン、エルカミーノに挑戦することにしました。20年ぶりのスペインは大好きな国だと感じましたが、またここに住んでみようという気持ちにはなれませんでした。ただ、この頃から海外で働くのはありかもしれないと少しずつ考え始めていたと思います。

「私はここでやっていける」実際メキシコに足を運んで感じたこと

モヤモヤした日々をその後も送る中で、以前にも増してオリンピック関係の方々がメキシコから広島へ訪問するようになりました。仲良くなったプロ通訳の一人に「メキシコで働くことってどう思いますか?仕事はありますか?」ということを聞くと、「日系企業も多数進出していて仕事はたくさんある」「スペイン語が話せれば仕事が探せる」と言われ、メキシコで働くという選択肢が生まれました。

ただ、メキシコにも中南米にもそれまで一度も訪れたことがなかったので、2019年年末から2020年のお正月にかけて10日間、メキシコシティを訪れることにしたのです。到着してから3日間は高山病に苦しめられましたが(笑) 福山に来てくれたオリンピック関係者のご自宅にお世話になりながら、観光以外にスーパーや市場にも足を運び、ここで仕事をしながら生活していけるのか?という様子見の滞在でした。

高山病が治った4日目、「大丈夫、住める」と直感で感じ、仕事を探すことを決断しました。お世話になったメキシコ人のご自宅に、いくつかの服や靴を預けて「私、メキシコに仕事しに帰ってくるから」と伝えて日本に戻りました(笑)

メキシコに一目惚れして、この国で働くことを決めたわけでもなく、パートナーがメキシコにいたわけでもありませんでしたが、ここでやっていけそうと、初めてメキシコに訪れた日々を通じて感じたのです。

退路を断っての職探し、コロナ禍での渡航

帰国して数日後、お世話になった市役所の上司に「3月末で退職します」と伝えました。まだメキシコで働く先も何も決まってなかったのですが、退路を断って、そこからメキシコでの仕事探しを開始しました。

その頃、Encounter Japanの西側さんをSNS上で知っていたのですが、同社の人材紹介の事業「amiga trabajo」で求職者を募集しているというお知らせを見て、メッセージを送りました。2020年1月後半でした。メキシコでは自動車関連企業の進出を通じて、バヒオ地区と呼ばれる中央高原地帯では、いまも通訳職の仕事が多くありますが、私は通訳ではなく、これまで培ってきた社会人経験や英語能力を活かして、他の業種にチャレンジしたいと考えていました。

そして現在勤めている、メキシコ国内での最大手である保険会社のMapfre社で、日系企業へのサービスを統括している三井住友海上の責任者である坪井さんと面談したのが、2020年2月28日です。奇しくもメキシコで初めてのコロナの感染者が確認された日でした。

幸い、坪井さんとのこの面談を通じて内定を頂きました。ここで初めて家族にメキシコで働き、生活すると伝え3月末で市役所を退職。日を追うごとにコロナが深刻化していく中で、労働ビザの発給手続を待ちながら待機していたのですが、無事ビザがおり、東京のメキシコ大使館での面接も終え、2020年6月末にメキシコシティに降り立ち、業務を開始することとなりました。

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