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メキシコのベンチャー企業を牽引する若きエース 生田祐介

愛知県で生まれ、野球少年だった青春時代。大学時代にはオーストラリアに滞在し、新卒でメキシコへ渡ってベンチャー企業に入社。若くして大企業との数々の仕事に挑戦する彼の半生に迫りました。

愛知県で生まれ育ち、野球に没頭した青春時代

私は愛知県の碧南市という場所で生まれ育ちました。豊田市、岡崎市など自動車産業が盛んな地域で、工場で生産された完成車が出荷される港街なんですが、家族も自動車関連の仕事に携わってきました。私は3兄弟の次男坊でして、2つ離れた兄が野球をしていた影響で小学校から野球を始めたのですが、4年生からは地元の少年野球チームとは別の環境を求めてリトルリーグに加入しました。小学校では落ち着きがなくわがままな子供でしたが、リトルリーグでは「真面目に練習をする良い子」という立ち位置だったので、それぞれのコミュニティで別の人格があったんだと思います。

中学校に進学する際には「本格的に野球がしたい」という思いから、私立の中学校を選択しました。この中学校の野球部で、人生の恩師である顧問の先生と出会います。本当に厳しい方でしたが沢山のことを教わりました。嘘をつかない誠実さ、逃げないことの大切さ、仲間を思うことの貴さ、周りの方への感謝を常に忘れないというようなことを指導頂きました。これらの教訓は野球においてだけではなく、自分の人生においても重要で大切な学びになっています。この顧問の先生は2016年に若くして亡くなられたのですが、今でも自分の人生の中でとても特別な、大きな存在です。

高校時代は全く勉強せず、野球に明け暮れた日々を送っていました。有難いことに、当時からリーダーシップを周囲のメンバーに認めて頂くことが多く、小中高と野球部のキャプテンを任されていました。時には前に立ってチームを引っ張り、時には後ろからチームを支えることが求められる「キャプテン」という役割は、今となっては自分に向いているのかなと思いますが、当時は野球の才能がない自分がただただ悔しく、その気持ちのはけ口としてキャプテンという立場に自分の存在意義を見出していましたね。高校時代はチームの誰よりも野球に没頭し、練習していましたが野球の実力ではレギュラーになれず仕舞いでした。野球で力を発揮できないので、キャプテンとしての力を発揮するしかない、努力では報われない辛い部分をグラウンドでのプレーではなく、他の部分でカバーしようという気持ちでキャプテンを務めていたんです。未だに自分のことをずっと「努力する凡人」だと思っています。凡人は努力しないと駄目。努力することは当たり前だと感じてきましたし、今日もそのように思っていますね。

夏の大会が終わり、京都での大学生活へ

部活動が終わって進路について考えている際、振り返ると本当に単純だったなと思うのですが、高校の先生から「君は消防士が合っているのではないか」と言われ、一時期は消防士を目指していました。京都の大学に救急救命士の資格が取れる学科があると知って、夏休みにオープンキャンパスに行きました。その際に折角だし、ついでに見ておこうと、京都の他の大学のキャンパスにも訪れたのですが、その雰囲気に惹かれて「京都で大学生になろう!」と決めたんです。

念願叶って、京都の立命館大学に進学することになります。私の進学した学部では、二年生から大阪にあるキャンパスへ移動するので、結局憧れの京都で学んだのは一年だけでしたが(笑)。よく意外だと言われるのですが、学業においては教室の前から3列目で授業を受けるような真面目な学生でした。「モテたい」という不純かつ純粋な動機でダンスサークルにも所属していましたね。

バイトやサークル活動もしていましたが、学生時代で一番印象に残っているのは、北嵯峨高校という京都の高校で野球部の学生コーチをしていたことです。自分も高校生の時分には大学生のコーチから教わったため、学生コーチに憧れがあったことと「恩返しがしたい」という気持ちもありましたね。実際には教える側の自分が、高校生の選手たちに教えられることが多く、本当に貴重な経験でした。充実した日々の中で様々な人に出会い、助けられ、振り返ると本当に人に恵まれていた学生生活であったと感じます。

「7部屋22人」で過ごしたオーストラリアの生活

海外に興味を初めて抱いたのは、確か中学生の時だったと思います。英語学習に力を入れていた学校だったため、英会話の授業が多くありまして、一日中英語しか使ってはいけないインターナショナルデーという日もありましたね。幼少期の時から新しい環境や場所に行くのが常に好きだったので、幼いながらに「未だ見ぬ地」への興味・関心は強かったんだと思います。常に知らない場所や新しいコミュニティを求めていましたね。カッコつけずに言うと、人と違うことしをしてチヤホヤされたいという思いがあるんでしょうね(笑)。「一度決めたことを曲げない」という自分の我儘をいつも実現させてくれた両親には本当に感謝しています。

実際に「海外に行こう」と思ったきっかけになったのは、サークルの先輩の存在でした。その先輩が留学でニューヨークへ行くと聞いて「海外って意外と遠くないのかもしれない。自分も行けるのではないか」と感じました。ワーキングホリデーも検討したのですが、考えた結果、留学を通じた海外渡航の方が良いと思って、学生ビザでもバイトができるオーストラリアへ留学することを決めました。

留学先として選んだシドニーでは、語学学校に通いながら「英語を何としてでも習得するんだ」という強い気持ちから、7部屋に外国人22人が住んでいるシェアハウスで生活をしていました。このシェアハウスでイタリアやペルー、アルゼンチンなどの友人が沢山できて、ここには書けないような(笑)本当に色んなことが毎日起こる、楽しく充実した生活を送ることができましたね。アルバイトについても日本食レストランではなく、外国人しか働いていないような場所を中心に40通ほど履歴書を送った結果「マックスブレナー」というお洒落なチョコレートカフェでバイトをすることになりました。様々な国籍の人々と触れ合う生活を送って、外国人に囲まれながら働き、お金を稼ぐ日々を通じてオーストラリアでの生活を楽しんでいました。

スペイン人の彼女を追いかけて、気づけばメキシコの生活が開始

オーストラリアから帰国後、日本での生活が物足りなく感じてしまうようになりました。オーストラリアで過ごした日々では、不便が当たり前。触れ合ったことがない、分からないことの連続で刺激的だったのに対し、日本ではどこか窮屈に感じ、違和感を抱えながら消極的な日々を送っていました。「早く日本から出たい」という気持ちが強くなる一方で、就職活動をしようかとも悩んでいたのですが、夏のインターンシップに応募するタイミングを逃して、ならば就職活動は諦めようと思ったんです。いま振り返って冷静に考えれば、全く遅すぎることはなかったのですが(笑) 当時はタイミングを逃してしまったと感じていましたね。

その当時、オーストラリアで出会い、遠距離恋愛中だったスペイン人の彼女がスウェーデンの大学院へ進学することが決まっており、僕が大学を卒業してから彼女が大学院を卒業するまでの一年間、何かできないかと思い悩んだ結果、選択したのが海外でのインターンシップでした。これまた高校の先輩が、ドバイでインターンシップをした後、外資系の大企業に就職したと聞いて、自分もやってみようかなと思いついたんです。1年間、どこか海外でインタ―シップをして、彼女が大学院を卒業後、自分もスペインへ向かって彼女の近くでワーキングホリデーでもをしよう、そのように考えていました。

渡航先や渡航する国はどこでもよかったのですが、当時の彼女のためにもスペイン語が学べる国が良いと考え、唯一見つかったのが、私が今働いているEncounter Japanでした。正直な話、Encounter Japanが良かったわけでも、メキシコに来たかったわけでもありませんでした。

大学3年生の10月に代表の西側とオンラインで面接をして、その場で内定を頂き、大学卒業後メキシコへ渡航することを決めていましたね。

こうして振り返ってみると、人生の他の局面においても同様なんですが「なんでも見切り発車」で決めてしまうことが多いように感じています。他の選択肢も多々あったのではないのかと思うのですが、一つ一つの決断をしている最中には「これしかない」だったり「これをやろう」と思って突き進んでいることが多い気がしますね。

早々にメキシコ行きを決めていたのですが、メキシコを選んだきっかけとなった彼女とは翌年の1月、自身の浮気が原因であっさりと振られてしまいます(笑)奇しくも出張で日本に訪れていた西側と初めて対面で会った三日後でした。

彼女とは別れてしまったので彼女の大学院卒業を待つ理由もなくなりましたが、その時にはもう周りにメキシコに行くということを伝えており、他に特にやりたいこともなかったので、渡墨の決断に迷いはありませんでしたね。純粋に「面白そう。そこに何があるんだろう」という興味が大きかったです。卒業前の大学4年生の2月、早く海外に行きたいという思いも強く、卒業式の前に友人と一緒にニューヨークとキューバへ訪れまして、その足でそのまま、メキシコへ降り立ったのが2019年の3月9日でした。

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紹介文: メキシコで活躍される日系企業経営者・社員の方々からスポーツ選手までインタビューし、お届け致します!

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