お名前:永峯 美樹さん
お仕事:靴職人/RAKUZAPATOS代表
RAKUZAPATOSバックパック旅行中に出会った「靴作り」の世界
私は埼玉県で生まれ、中学校卒業までを地元埼玉で過ごし、高校と大学は東京の学校に通いました。
染物が専門の大学に通っていたため、日本のカルチャーに根ざした仕事がしたいという想いを当初抱いていましたが、日本の伝統産業の世界は大変狭いため、自分のやりたい仕事や表現したいことを果たして実現出来るのか、という不安を同時に感じていました。
大学を卒業し、社会人になってからは、休暇の度に海外旅行に出かけていました。幼い頃から漠然と海外に憧れを抱いていましたが、学生時代に留学の経験をすることもなく、外国語が得意というわけでもありませんでしたが、バックパックを担いで海外を旅行することで、日本以外の空気に触れることが非常に楽しかったんです。
靴に興味を持ったのは、皮という素材が、手に入れた瞬間自分ととも に育っていく素材だという事、タイの街角で、注文したモカシン シューズの制作行程に魅せられた事がきっかけでした。
「ここなら住める」と感じた国、メキシコ
タイでの出会いを通して靴の世界に魅了された私は、原宿にあるモゲ・ワークショップという靴の専門学校に通いました。専門学校で靴づくりについて学んだ後、私は友人と東中野で工房を始めました。工房では注文の靴を作るだけではなく、興味のある方々に向けたワークショップなども定期的に行っていました。その後、参宮橋に移って単独で工房を始めました。その頃からワークショップや教室は辞めて、自分の作りたい靴づくりに専念するようになったと同時に、某アパレルブランドから靴のデザインの仕事を受けるなどして1年間を過ごしました。
注文を受けるということは第三者の注文に応えるということです。私は、当時自分が表現したい、形にしたい靴を作りながら生活していくにはどうすれば良いかを模索する日々を過ごしていました。東京で工房を持って靴を作るということは、生計を立てていくことさえ厳しいことを体感していたんです。
そんな悩みを抱いていた頃、私は旅行でメキシコに訪れました。それまで様々な国に訪れたにも関わらず、自分が住みたいと思える国に出会わなかったのですが、メキシコを旅行していくうちに「ここだ、私が求めていたのはこの感じだ」と感じ、メキシコに住みたいなと思ったんです。
はじめてメキシコに来た当初はスペイン語が全く分からず、現地の人々とのコミュニケーションが取れなかったのですが、スペイン語に魅力を感じ、スペイン語を学びたいと思ったんです。スペイン語って耳にすると、彼らが何を話しているのかもっと知りたくなる、不思議な言語なんです。
勿論メキシコが生活する上で、不自由ないものだとは思っていませんでしたが、メキシコの適当な不便感が私には丁度良いと感じました。また、メキシコの同じはずなのにゆっくりと感じてしまう時間の流れ、一人にしてくれない現地の人々のお節介さが心地よく感じたんです。
さらにメキシコは欧州やアメリカと比較して物価は安く、自分のやりたいことに対して時間をかけて、とことん向き合うことが出来る場所だなと感じメキシコに住むことを決意しました。
メキシコシティでの生活を終え、サンクリストバルへ
メキシコでの旅行から帰ってきた私は、活動の拠点としていた参宮橋の工房を閉め、メキシコに単独で向かいました。
メキシコに到着して、すぐに工房を持って靴づくりを始めたわけではなく、先ずはTAXCOの大学に通ってスペイン語を学びながら、メキシコ国内でどの街に住むかを検討する日々を送りました。靴産業が有名なグアナファト州のレオンに住むことも考えましたが、靴づくりをする上で最良の土地よりも縁を優先してサンクリストバルに住むことを決めました。
私が現在も住んでいるサンクリストバルという街は小さな村ですが、とてもインターナショナルな場所です。メキシコ人のみならず沢山の外国人がこの街に移住し、生活を送っています。先住民カルチャーの根強いチアパス州は生活自体、消費社会からはほど遠い牧歌的な小さな町です。
田舎であるため、靴作りをする上で沢山不便なことがあるのも事実です。
腕のいい職人さんに出会うのも,靴をつくる上で必要となる道具や材料を調達するのも、思っていた以上に時間がかかりました。今思うと、スペイン語の習得や文化の違いを充分理解して、メキシコ社会の一員となるために必要なプロセスだったと思います。
2人目の子供を授かったタイミングで、日本から依頼されていた仕事を辞めました。RAKUZAPATOS =私、からメキシコ人の職人さんを巻き込んだプロジェクトとして、新たな展開を目指しています。