人生の充実度を求めて辿り着いたメキシコ。料理の道を極める坂根秀哉の歩み。

アメリカの大学を中退しインテリアの道に進んだ坂根さん。家具販売店や料理人、ベトナムIT企業という異色のキャリアを経た後、現在はメキシコのベンチャー企業で日本人シェフとして活躍されています。メキシコで料理の道を選んだ理由や現地での仕事の様子、今後の目標についてインタビュー。記事の最後には、坂根さんと一緒に働く料理人・シェフの求人情報についても記載しています。

溢れる好奇心を頼りに駆け抜けた学生時代

私は東京の練馬区で生まれ、小学生の時に両親が離婚したため母子家庭で育ちました。母は特段教育熱心というわけではなかったのですが、英語教育には当時からかなり投資をしてもらっていたと感じます。今振り返ると海外志向になるきっかけはそこにあったのかもしれません。

小学生の時には英会話の塾などでネイティブの講師と関わる機会があり、高校も国際科という英語に特化したコースに通っており、修学旅行はアメリカのシアトルに2ヶ月間ホームステイをしました。大学受験の時期も日本の大学にあまり興味はなく、アメリカの大学へ進学するという選択肢があるということを知ってからは、金銭的事情など考えもせずに自分の中では行くことは決めていて、実際にアメリカのモンタナ州立大学にメディアアーツ専攻で入学しました。

生活は充実していましたが学業についていけなくなったことと金銭的な事情で2年で同大学を中退しました。その後は東京の専門学校に入り建築・インテリアについて学びました。

学生時代はとてもアクティブな生徒でした。

小学でサッカーと水泳、中学でバスケ、高校ではスキー部と軽音楽部に所属していました。好奇心が旺盛でその時々で興味があるものにのめり込んでしまうとも言えますが結局飽き性なんだと思います。スキー部に入った理由も当時ラストクリスマスというドラマが流行っていたということだったり、軽音学部もBECKという漫画や洋ロックにハマっていたからという浅はかな理由です。その代わり色々な経験をすることができましたが、金銭面には母親にとても苦労をかけたと思います。母親にはただただ感謝しています。

中学時代に借りたドキュメンタリーで料理人に対して憧れを持つ

中学の時に近所にできたTSUTAYAでビデオやDVDを借りて様々な映画を観ていたので映画から様々な影響を受けてきました。

その中でも当時なぜ借りたのか分かりませんが、イギリス人のイタリアンシェフJamie Oliverのドキュメンタリーは今でもよく覚えています。それが初めてシェフというか料理をする姿に憧れたきっかけかもしれません。実際に初めての飲食業を経験したのは、高校時代で、Fenderのギターやエフェクターを買うためにガストでアルバイトをしていました。当時は激務すぎて、将来は飲食業に関わる仕事なんて絶対にしないと思っていました。

また、NHKで放送していた白州次郎のドキュメンタリーを観てから彼に関連する本を読み漁り生き方のかっこよさにも憧れましたね。他にも高校の時のロックな風貌の担任の先生や、昔勤務していた表参道のカフェレストランのカリスマ的存在のシェフなど、何か尖ったセンスのある人には憧れていました。

専門学校卒業後、天王洲の輸入家具販売店に勤務しました。社長の奥さんに将来社長になってほしいと言われるなど魅力的な打診もありましたが半年ほどで退職してしまいました。

専門学生時代にイタリアンレストランで3年ほど働いていた頃のことを思い出し、やはり料理を仕事にしたいということで早速転職を決めました。そこから、表参道のカフェレストランに就職し、料理人としての働き方の基礎を学びました。その後、駒沢の姉妹店に異動になりましたが、激務がたたって鬱になってしまい1年ほど療養期間を経ることになります。

療養期間を経た後、自由が丘のカフェレストランに就職し、キッチンの社員として勤務しますが前任のシェフが自分が入社してから半年と経たずに退職されることとなり、計らずも自分に料理長の打診をいただき、始めは自信がなく辞退しましたが2回目の打診で承諾し、料理長としてレシピ開発から業者選定、厨房全体のマネジメント業務に従事しました。

料理人から一転、ベトナムのIT企業に転職

30歳の節目を目前に飲食の仕事を続けていくのか悩んだ時期があり、心のどこかでいつか挑戦したいと思っていた、海外で働く最後のチャンスと一念発起し知人づてでベトナム中部のリゾート地として有名なダナンにあるオフショアのシステム開発会社を紹介していただき、半ばダメもとで履歴書を送り、面接を重ねて内定に至りました。

初の海外勤務がベトナムになるとはこれまで全く想像していませんでしたが日本で働くことと、海外で働くことでは大きくライフスタイルが変わることを実感しました。

飲食店時代には都市伝説のように感じていたカレンダー通りの休日や定時での退社に加えて、最も良かったのは満員電車で通勤しなくて良いことです。とにかく世界が広がったように感じました。

業務内容はディレクターとして銀行やFintechのアプリ開発に従事しました。IT業界は完全な未経験だったのでAPI、WBS、デプロイなど呪文のような言葉が次々と押し寄せてきたので初めはとにかく意味を理解することに苦労しました。

特に初めてのプロジェクトから銀行のアプリ開発という難易度が高い案件だったため、銀行の専門用語なども覚えなくてはならずとにかく苦労した記憶があります。

ディレクターとしては日本側のクライアントとベトナム拠点のエンジニアたちとの間のコミュニケーションの橋渡しをすることで、プロジェクトの仕様書の定義やデザイナーとのやりとり、スケジュール調整などを主に担当していました。

また、外国人と働くことも初めてだったので商習慣や文化、考え方の違いに始めは戸惑いましたが、それも含めてリスペクトを持って共に働くことの重要性を学びました。

日本での飲食店での業務ではエクセルは使っていたものの発注はFAXだったりとアナログな習慣が色濃く残っていたのに対して、タスクやスケジュール管理のやり方、チームメイトとのコミュニケーションやマネジメント方法などがデジタル化しており、非常に効率的でかなり衝撃を受けましたね。ただ残念なことに半年ほど経ったらコロナが流行り、ベトナムはコロナへの初期対応が早かったこともあって早期にロックダウンしたため在宅勤務をせざるを得ないことも多かったです。

2020年の終わりには日本側で支部の立ち上げに参画し、日本に帰国し引き続きディレクターとして自社プロダクトのシステム開発などに従事しました。

コロナ禍ではあったものの日本から出たいという想いが収まらず、本来は拠点のあるベトナムに行きたかったのですが、渡航制限で入国不可だったので、リモートワークという名目で社長と共にトルコに行ったりもしました。時差が6時間あるので朝4時から昼の3時まで働き、その後観光というハードでしたが場所を問わずに仕事ができるという部分に魅力を感じました。

IT企業→メキシコで日本食料理人

ベトナムやトルコで新しい働き方に対して魅力を感じる半面、やっぱり料理が好きだなと感じていた32歳の時、待遇もいい上に安定していたIT企業ではなく、「人生の充実度」が高いと感じた料理の道に戻ることを決めました。ただ海外で働くということは続けたかったため、「海外で料理に関わる仕事」という軸で仕事を探し始めます。

2021年は世界的にコロナ禍真っ只中ということもあり、海外の飲食店求人サイトであるFind ChefやWorld Postで求人を探すものの、自分の条件に合う募集はかなり少なかったので、特に国で選ぶことはせず自分が働ける条件に合致する企業を探していました。その中でも当初はヨーロッパ圏や北欧に興味があり、中南米は検討もしていませんでした。ただベトナムでベンチャー気質の企業にいたこともあり、メキシコのベンチャー企業であるEncounter Japanに対して面白そうな会社だなという印象を受けたことは覚えています。代表の西側のNoteの記事や、社員インタビュー記事を読んだことで働く人の声や表情を知ることができて、いくつかあった選択肢の中で最も親近感を感じましたね。

代表の西側のNote:メキシコを中心にラテンアメリカと日本で事業を展開する仲間を各事業部で募集します!

幸い縁があって、2021年10月からEncounter Japanの日本食レストランGOENにてシェフとして働いていますが、上手くいかない事も多く、日々困難にぶち当たっています。食材の面で言うと、日本の調味料や食材はメキシコでは当然輸入商品なので日本と同じ感覚で食材が使えなかったり、水や土壌が悪く、バクテリアなどの微生物が含まれているため、多くの野菜は専用の消毒液で洗わなくてはならなかったりします。またバヒオ地区は標高が高いので沸点が低く、麺をゆでたり、米を炊くなど日本では特に気を使うことなくやっていた作業も工夫を凝らしながらやらなくてはならないので、お客さんに料理を提供するまでのプロセスにものすごく気を遣う必要があります。米に関しては日本産米が使えない状況なので今は日本産米に近いカルフォルニア産のカルローズ米という種類の米を使っていますが、やはり日本産米の米自体の美味しさを再現することは難しいです。米は日本食の代名詞のような食材なので気を遣いながら調理していますが、まだ改善の余地があると感じているので日々試行錯誤を重ねています。

使用できる食材にしても輸入の関係で限定されているし、何より値段も高くなってしまう。例えば、ポン酢やラー油などは、基本的な調味料や現地の食材を利用して自家製で作っています。もし業者さんが取り扱っていない場合でも「あの調味料を使いたい」と思った時には作れるものであれば作ります。日本と比べて簡単に手に入るものは少ないですが、常に工夫して代用品を探したり、自分で作ったり。元々ものづくりが好きなので苦と捉えずその辺りは楽しみながらやっています。

海外で日本食をやる魅力 ~日本の当たり前を押し付けない~

私の住んでいるレオンという都市には日本食を謳った飲食店(海外でよく見るなんちゃって日本食)が多くありますが、日本食と言えばまだまだ寿司(カリフォルニアロールのような巻き寿司)のイメージが先行しているように感じます。また、刺身など生魚を食べる習慣がなかったり、海苔があまり好まれないなど日本の寿司屋で見かけるメニューを忠実に再現するだけでは現地のお客さんには受け入れられづらいのではないかと思います。

日本人として食べてきた「日本の味」を再現することは日本人にとっては嬉しいのですが、いわゆる日本の味だけを売り出して海外でやっていくのは難しいと感じています。GOENレオン店ではメキシコ人のお客さんは勿論、メキシコで勤務されている日本人駐在員の方やそのご家族、出張者の方もいらっしゃるので、弊社レストランであるGOENのコンセプト「オーセンティックな日本食」を軸とした時に日本人が知っている日本の味に近づけつつ、どこまでメキシコ人のお客さんが好む味に歩み寄るのか、そのバランスが非常に難しいと日々感じます。メキシコのお客さんが好む味に近づければ日本人からすると「自分達の食べてきた日本食とはちょっと違う」となってしまうし、反対に日本人に馴染みのある味に近づきすぎるとメキシコ人のお客さんからは受けがあまり良くなかったり。最初に組み立てたレシピと全然違うレシピになることは日常茶飯事です。だからこそ、「美味しい」と言ってもらえた時の喜びはひとしおです。

まだまだ模索中ではありますが日常的にメキシコ各地の料理に触れることでどういった味やプレゼンテーションが好まれるのか学んで行きたいですね。

メキシコの食文化に関して特に感じたのは、メキシコシティは多種多様な食事が楽しめるので例外だと思いますが、その他の場所では食のバラエティーがあまりないと感じています。以前住んでいたベトナムではタイ、インド、中華、イタリアン、フレンチなどなど食の多様性に富んでいたのですが、ここレオンではアメリカナイズされた中華やイタリアン、ロール寿司がメインで、あとはほとんどがメキシコ料理。日頃から異国の食文化に触れる機会の多い日本人の私からすると「飽きないのかな?」と思うこともあります。

日本食に関してはアニメ人気の影響もあって、「この料理はあのアニメで見たことあるよ」という声を店のスタッフからもよく聞きますね。ラーメンにしても「なるとを入れたほうが絶対いい!」なんてこともよく言われます(笑) 日本人の自分からすると重要なのはスープと麺ですが、こちらでは、なるとが入っているかどうかが重要視されてしまう。正直なところ「そんなに重要かねぇ」と思ってしまうのですが、、日本のアニメの影響はとても大きいですね。

坂根秀哉にとってのEncounter Japan

Encounter Japanは私が来た一年前と比べて急速に拡大しています。この一年の間でケレタロにある中南米唯一の日系ホテルFUJITAYA内に日本食レストランGOENを出店したり、カリブ海地域やメキシコから飛び出してラテンアメリカ内の他の国への進出の準備も着々と進んでいます。一年前には単なるアイデアだったものが実際にプロジェクトとして動き始めていることを経験し、スピード感のある会社だと感じます。社長の西側をはじめ、営業部長の生田や飲食部門長の坂本のような個性溢れる猛者達が揃っているというのも魅力の一つです。

会社の風通しも良くて新規事業やプロジェクトなどのアイデアにも耳を傾けてくれるので、様々なアイデアをカタチにする機会を提供してもらえます。その反面、責任も重くのしかかりますが、実際にアクションに移させてもらえる魅力的な会社であると感じます。

また、日本の飲食店に勤務している際には想像できなかったような経験をさせて頂ける機会も、メキシコでは多くあるのではないかと思います。2022年9月にはカンクンにあるリゾートホテルMoon Palace Resortにて当ホテルの従業員への教育のためにホテル側がサミットと称してイベントを開催しました。そこにはメキシコ国内のみならず各国の有名シェフやミシュラン星付きのパティシエなど錚々たる顔ぶれが招待される中、自分は坂本のアシスタントとして同行し、Master Classという舞台で日本食についての講義や、ゲストに向けた120名分の夕食の調理などを経験させて頂きました。日本でも有名シェフにならない限り出来ないような貴重な機会に多く恵まれているので、メキシカンドリームは存在すると確信しています。

中南米唯一の日系ホテル「FUJITAYA」内にIzakaya GOENを出店しますメキシコのベンチャー企業を牽引する若きエース 生田祐介【メキシコで奮闘する若き異色の料理人】坂本和也の人生

これからのEncounter Japanで挑戦していきたいこと

新規出店の目論見は常にあるので、新規店舗立ち上げに参画したいと思っています。

他には、まだまだ飲食業はアナログな部分が多いと感じているので、前職のIT企業で経験したことを活かして行きたいと思っています。メキシコ人の従業員は頻繁に遅刻もしますし、期限に間に合わないなど時間に対しての意識の持ち方が違います。また従業員の年齢も20〜25・6歳と若いため、なかなか言語だけでのやりとりでは手戻りが多くコミュニケーションコストがかかりすぎるため、作業がなかなか前に進まないことが課題でした。

そこで最近は店舗を一つのプロジェクトとして捉え、チームが無駄のなく素早い動き方ができるような仕組みづくりをして現場に落とし込んでいく作業を進めています。毎朝10〜15分ほどメキシコ人マネージャーと朝会をしてタスクの進捗、今日やること、お互いが今何をしているのか、困っていることがないかを確認する場を作っています。

スピード感のある企業なので、良い意味でいつどのようなプロジェクトが動き出すか分からないため、店舗においては日本人の自分がいない状況でもメキシコ人スタッフだけで同じ品質のサービスや料理を提供できるような座組みや仕組みを作りたいと思っています。

太陽の国メキシコで働く日本人シェフを募集しています!

メキシコに興味があるというのも大事ですが、どのようなジャンルでもいいので日本の飲食店での調理やサービス経験があり、仕事として料理やサービスが好きで、その仕事の場所を移して、メキシコでもやってみたいと感じる人が向いていると思います。日本の飲食店でバリバリ働いているけど、次のステップとして転職を検討されている方であったり、将来海外で独立して飲食店をやりたい人、自分でレシピ開発したり店づくりをしたい人にも合っていると思います。

言語については、日本人もいますし、英語が話せるメキシコ人メンバーもいるので、日常会話レベルの英語ができれば現場スタッフとのコミュニケーションは取ることはできます。勿論スペイン語を学ぶ姿勢は必要です。自分もメキシコに来た当初は自分もメキシコに来た当初は"Gracias”と"Hola"しか分からず、まだまだ勉強中の身ですが、一年ほど経つとキッチンで使う基本的な用語であったり、食材の名前などは一通り覚えると思うので、そこまで言語について心配する必要はないと思います。勿論チームのサポートがあるからこそ言語がままならなくても仕事ができる環境があるので感謝しています。

また、言わずもがな商習慣や文化が違うので、それに馴染める柔軟性があると良いと思います。「このやり方は違う」「それは日本ではありえない」などと思うことはよくありますが、メキシコの地で外国人として働かさせてもらっている以上、現地の習慣や人々にはリスペクトを持って接することができる人でないとストレスが溜まる一方で現地での仕事は難しいのではないかなと思います。

勿論、日本人が経営する日本食レストランである以上、仕事の根幹となる部分ではサービスのクオリティを保つためにスタッフに厳しく注意することもあるので、軋轢を恐れずにしっかり指導できる人でないと彼らのラテンのバイブスに流されてしまうため、仕事の面では飴と鞭の使い分けができる人がいいかなと思います。

年齢については特に制限は設けていませんが、現在働いている人は20代〜30代前半が多いので同年代の方であればよりメキシコでの仕事や私生活を楽しめるのではないかと思います。

弊社にはインターン制度もあるので、新卒や第二新卒の方でも素直さ・体力・チャレンジ精神があって、飲食業においての経営やマーケティングを海外で学びたい方は是非挑戦してみてはいかがでしょうか。

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