日墨協会会長 和久井 伸孝氏の人生を歩む。

長い間、メキシコで活躍されてきた和久井伸孝会長。 日墨協会の会長を務める傍ら、自身でも会社『Viajes Toyo Mexicano』を営むその人生に、何を思うのか。。。 その思いは、メキシコで生活する誰しもが学ぶべきことでした。

新潟県の十日市の田舎で育ち、3人兄弟の真ん中で、農業を手伝ってきました。

高校卒業後、明治大学の商学部の学生だった頃、在京メキシコ大使館のメキシコ人公使と知り合い、卒業後メキシコに渡ってきました。

現在の日本食レストラン「奈ケ丘」の前身で「京都」というレストランのマネージャーをし始めたのが、メキシコ生活のスタートです。

親日国の由来は日系人の努力のお陰

当時は、メキシコは「危険」というイメージはなく、とにかくアットホームな国。夜遅く歩いても襲われるということもなく、牧歌的な雰囲気でした。人と人の繋がりを大切にする、言うなれば東京の下町のようでした。

日本人に対して非常に親日的というのはよく言われますが、これは日本人が勤勉というイメージがついているからです。実は、日系移民の方々は代々、子どもの教育に力をいれてきた。日本人に対するポジティブなイメージは、そういった方々の努力の賜物だと思います。仕事をしても何をしても、日本人の信頼、信用度は高いです。

また私がメキシコに着いた70年代頃は、日本もオイルショックや公害に苦しんでいる時代で先進国とは言えず、日本の物を持って行って売っても「安かろう悪かろう」と言われました。

それが、80年代90年代には、日本のメーカーの評判がどんどん上がって、日本といえば、クオリティの高い白物家電や電気製品、というイメージがつくようになりました。

長く住んでいるとこのような変化も見えてきます。

会社は今年で30年。かつてはペソ危機や詐欺で倒産の危機も

また、これまで30年間、『Viajes Toyo Mexicano』という会社で旅行業をやってきました。

倒産の危機に見舞われたことは何度もありますが、一番大変だったのは、テキーラショックやドル口座凍結によるペソの切り下げが起きた時です。為替変動で大きな損失を出してしまうことは、大きなカントリーリスクの一つです。

また、取引先から騙されたこともありました。

政府がお客で支払いをしてもらえず「我々は政府なのだ」と支払を許否されたり、クレジットカードで莫大な偽り請求をされたり、チケットの手配で詐欺にあったこともありました。

ただ、騙されるこちらも隙があったということですから、それも自分の実力のなさだと、自分を鼓舞してここまでやってきました。

こちらに非がないにもかかわらず、従業員に訴えを起こされた事も何度もありましたが、最終的にはメキシコ人の従業員にも守られてここまできましたので、総合するとプラスのことの方が多いのかなと思っています。

仕事は自分の耳で聞いて、自分の足で行動して、自分の目で見る。

『Viajes Toyo Mexicano』という名前は、メキシコと日本、アジアをつなぐような仕事がしたいという気持ちから名付けました。

仕事をしてきてわかったのは、我々は人、つまり旅行者というお客様と接する仕事なので、“人を好きである事” “人を観ぬく力” “勇気”が必要ということです。

日本人でありメキシコ人のお客様であれ、日本的な質の高いサービスを期待されますから、「此処はメキシコですから。。」という言い訳はききません。

メキシコで事業をしていてもその期待に応えなければいけません。「旅行」という商品は返品ができないので、サービスや雰囲気の満足度を少しでも高めていくことを大切にしてきました。

メキシコ人のお客様は、日本人に対して親日的なので、エージェントや富裕層の住宅地などでのドアtoドアでの営業でも親切に対応してくれました。日本人が日本のツアーを売るわけなので、こちらも自信を持って売ることができます。

しかし当時はネットがないので、京都は今どうなっている、というのをパッと調べることができません。ですから、口から口へ伝えていく情報に重みがありました。この人の情報なら信頼できる、ということが大切なのです。

私は実践で叩き上げてきた人間なので、実際に会ってみて意気投合した人間の話でないと信頼しません。

常々社員にも言うのですが、教科書がない世界ですから、自分自身が体験しないと、他人に伝わるわけがない。

自分の耳で聞いて、自分の足で行動して、目で見て…そうして初めて相手に真実を伝えることできるのだと思います。

メキシコをどう捉えるか…「危険・ルーズな国」で済ませることこそ、危険。

メキシコはすごい国だと、住んでみて感じます。まず、世界で数少ない自然豊かで特異な地形を持った国です。海抜高度に差があり、緯度も長く北は北米から南はグアテマラまで。つまり一年中多種多様な気候と作物が採れます。

資源も豊富で、北にはアメリカという世界最大の市場があり、中南米、カリブは自国の言葉、スペイン語全てが通じる国が広がっています。さらに農耕民族による豊かな文明、マヤ アステカも発達しました。こんな国は他にありませんよ。

昔はアメリカ向けの工場を国境付近に作っていましたが、メリットがなくなり日系企業も一時は中国に引き上げていました。

現在のメキシコへの再注目は、メキシコ政府やグアナフアトの州政府の政治的な戦略です。その結果バヒオのような交通の目である場所への自動車産業の集積に成功しました。サプライヤーからしてもこの集積は大きなメリットです。

一方、メキシコは恵まれている国でありながらここまで北米移民が多いのは、やはり貧富の差が激しいという問題もあります。

メキシコには、このようにいろんな面があります。メキシコ像を捉えるとき、「治安が悪い」「時間にルーズ」「嘘をつく」「仕事が進まない」…といった話があがりますが、他の国を日本の尺度で見ることは、危険なことだと思うんです。

日本も外国から見たらおかしな部分はたくさんあるのですから、ラテンの空気感が合う人、合わない人はいますが、リピーターが多い国ですし日本とは異なる魅力がある国です。

実は、私もはじめは海外に行きたいと思っていたわけではないのです。

銃を突きつけられたことも1度や2度ではありません。ですがもし1940年代15年前に生まれていれば、戦争でお国の為に死ぬというのが当たり前の時代だったので、今はメキシコに受け入れてもらい、生きるチャンスを与えられたことをとても感謝しています。

また、日系社会や日系移民の世界は、自分からは遠い存在でしたが、生活が長くなるにつれてだんだんお世話になることも増えてきました。そういった関わりを断って生きることもできますが、求められている場合は勤め上げねばならないのではないかと思います。

身の丈にあった生活が、最高の贅沢だ

これからは、育ててくれたメキシコで、今以上にこの国を知り、学び、人とも交わっていきたい。

メキシコと日本の関わり・関係を深めるために何ができるか、頭の中にはいろいろと考えはあるのですが、身の丈にあった、本質的なことを忘れずにいたいと思います。自分の土地で、自分の手で耕して、自分の作った米を食べる。これが私にとっての最高の贅沢です。

ビジネスでも、今まで本当に真険に100%の力を出して生きて来たのかを自らに問うような、自分に対する最後の挑戦をしていきたいと思っています。

私は自分を追い詰めていく性格なので、100%で満足したくないんです。120%出すことができたら、その20%で他の誰かに分け与える,また共生、共有することもできるかもしれませんね。

この記事を見た人はこんな記事も見ています。

日系人コミュニティ『ひまわり』【インタビュー】駐メキシコ大使 山田彰氏
1/1
お気に入り

特集

amigaピックアップ