大学を卒業後青年海外協力隊へ挑戦
——初めは、教師希望でいらしたと伺いました。
教師志望だったのですが、教師になる前に何かをしようと思って。青年海外協力隊をテレビに知って、参加することにしました。発展途上国といえば農業というイメージがあったので、実地経験を積むため愛知県の農業総合試験場で研究生として1年働きました。
——青年海外協力隊で農業ですか!憧れますね。農業の魅力はなんですか。
肉体的にはものすごく辛くて厳しいです。しかも当時は今のようにアグリビジネスが発展していなくて、ビジネスとしてはそんなにがつがつしていた時代ではなかったので、普通に作って、家族4人で数百万といった具合です。儲かる業種では全くありませんが、自分で作る喜びというのはありますね。
1993年、長野県の駒ヶ根で派遣前訓練を受け、グアテマラのアンティグアでの語学研修を終えてから、パナマに着任しました。それまでは海外旅行は卒業旅行でトルコとエジプトに行っただけでしたね。海外志向は特になかったんです。今でも英語は下手ですし…英語の勉強しなくてもいいと思っていたくらいですよ。
初めての長期滞在となるパナマでは悪戦苦闘の日々
——パナマが初めての海外での長期滞在ということで、心境の変化や、考えていた悩みなどはありましたか。
協力隊では現地での講習などはないので、着いてすぐ現地に入り活動を開始します。作物を栽培をする、というのをひたすらやっていくんですが、パナマは日本とは品種・道具・気候・土壌(泥地)、全てが違うので、いままで通りやろうと思っても、日本でのやり方が通用しないんです。野菜稲の苗床を作って畑に移そうとしたら葉切りアリに全部刈られたり、トマトを吊るすためのビニールの紐がないので、代わりにずた袋を裂いたものを使ったら、細すぎてトマトの茎身にくいこんでしまったり…1年目は全然ダメでしたね、失敗ばかりでした。現地の人には「何しに来たんだ、あいつは」と思われていたと思います。2年目くらいからは失敗を生かして、現地のやり方を学びつつ、日本のいいところを取り入れていけばいいのかなと考えるようになりました。
あと、協力隊員は「カウンターパート」という、技術移転の相手を持つのですが、その相手が日本に研修に行っている間、現地にいる人とトラブルになってしまい、配属先を変えてもらったこともありました。上手くいかないことばかりでしたが、なんとかパナマでの2年半の赴任を終え、帰国しました。
帰国後、またも海外へのチャンスが訪れる。出国先は、「メキシコ」
——波乱万丈なパナマ生活だったのですね。帰国後は教員になられたのですか?
一応そのつもりでした。1月帰った時は無職で、7月の採用試験まで時間があったので、翌年4月に教職につくまでのつもりで国内協力員という協力隊事業の後援サポートを行うスタッフなりました。募集説明会で司会をしたり体験談を話したり、広報計画を作成したりと、運営側の仕事をしていました。
そのうち7月が近づいてきたのですが、準備があまりできておらず、教員の採用面接に落ちてしまいました。翌年にまた受けようと思っていたんですが、パナマでお世話になっていたJICAの職員から「JICAのメキシコ事務所にこないか」というお誘いをいただき、2、3年ならいいかな、とお受けすることになりました。結局6年3ヶ月いましたね。総務経理を3年、日系社会支援事業担当として、日系人向けのボランティア派遣・日系研修員受入れ等を3年ちょっと行っていました。
——6年もいたら、メキシコに染まりませんでしたか?
それでも、いつか日本に帰りたいという風に思っていましたよ。
——ちなみに今は、日本に帰りたいと思われることもあるんですか?
今はアメリカ採用なので、メキシコにずっといるかはわかりませんが、もしかしたら長くなるかもしれませんね。骨を埋めないと!とは思っていませんが、今はこつこつ自分の仕事をやるだけです。
——そこから、在メキシコ日本国大使館に移られたんですね。
仕事上、大使館の領事部とはよくやり取りをしていました。あるとき退職される方がいて、たまたまその欠員を埋める人を探しているのだが、ということでお声をかけていただきました。新しい貴重な経験ができそうだと思って、転職を決めました。大使館への転職後は、戸籍・パスポート等領事部の一般業務のほか、邦人援護の業務も多く、面白い仕事をさせてもらっていましたね。
お客様への思いやりをもつことの大切さ
——伺っていて思うのですが、木村さんは支援関係のお仕事が向いていらっしゃるんでしょうか。
そうですね、特に選んでやっているわけではないんですけど、お礼を言われたりすると嬉しいし、こちらのやり方によって相手の対応も変わってくるので、常にお客様目線で仕事をしようとは考えてきましたね。「大使館の固いイメージが変わりました。」と言われるとやりがいがあって。例えば、大使館へは、出生届・結婚届とか、一生に何度もしない事をしに来る人が多いんです。こちらは日常業務ですから、ルーティンでそっけない対応をする人もいます。でも、「初めてだとわかりませんよね。」と言って丁寧に対応すると、お客様の反応も変わってきまますね。あとは、困ってくる人も多い。メキシコだと盗難にあったとか、頭から血を流して、襲われた、とか、マリファナで捕まった人とかの対応とかもありますね。その場その場で考えながらやる仕事だったので、毎日面白い仕事でした。
新天地「JAL」での新たなスタート
——大使館で3年勤められた後は、JALに。教師の夢はもうその辺りで…
さすがにそうですね、年齢的にも諦めてしまいました笑。大使館の次の転職は今の職場ですが、たまたま声をかけていただいて転職することになりました。大使館への転職時もですが、前職の最終勤務の翌日には新しい会社で働いていました。笑
——今のお仕事に対しては、もともと興味はおありだったんですか?
いままで民間企業で働いたことがなくて。ずっと大使館で働くのは厳しいかなぁと思っていましたし、新しい環境で経験を積めるのもいいなと思ったのが決め手ですね。ですが、当時弊社は不祥事続きでバッシングもあった頃だったんで、周りの9割以上の人になんで?というような反応をされました。
——JALにはもう10年お勤めですよね。
そうですね、初めてはメキシコに4年いましたが、2010年に会社更生法が適用され、赤字路線ということで38年に亘り運航を続けていたメキシコ線運休・支店撤退することになりました。支店閉鎖・現地法人子会社清算業務を最後の一人として行い、そのあとは、ロスの米州本社で2年間経理業務に就き、サンディエゴ就航準備のためサンディエゴに異動となり、サンディエゴ支店総務・経理責任者としてに3年半勤務して、今回またメキシコに帰ってきました。
——メキシコではどのような形態で業務をされているのですか?
メキシコ路線撤退後も、ロス経由等弊社の航空券をメキシコで継続して販売しますので現地旅行代理店にGSA(general sales agency、総販売代理店)に販売業務を委託して、日本航空として売ってもらっています。弊社ダラス線就航に伴いメキシコでの販売強化が必須でしたが、GSAには日本人スタッフがおらず日系マーケットへのセールスが弱かったため、JALスタッフとしてメキシコに駐在し、GSAと協力してセールス活動をしています。
——そうだったんですね。御社は独自のサービスで直行便に対抗しておられると思うのですが、今後の展望などはありますか。
この6年間、JALのプロモーションは会社全体としてもできていなかったところがあると思います。中南米圏でいうと、昨年11月よりダラス線が開通就航したことでメキシコへのアクセスが抜群に良くなったので、日系マーケットをどんどん強化していくつもりです。弊社としては、座席数を絞って広い居住空間を確保している新シートや、預け荷物のピックアップが不要で入国・税関審査を一度に行うことが可能なダラス空港のとてもスムーズな乗り換えを売り込んでいこうとしています。もちろん、将来的な目標としては直行便を、というのを諦めずに行きたいと思います。
メキシコで多くの時間を過ごしたからこそ感じるこの国の魅力
——苦労していることはありますか。
JALの新しいご提案を周知させるのがまだまだ難しいということはありますが、なによりもまず、メキシコにいる弊社スタッフが自分ひとりであることですね。出張、出張者の対応、経理処理・伝票処理を含め全部自分一人でやっています。GSAのスタッフはいるのですが、別会社の社員ですので仕事は振れないですね。
——今も一緒に働かれておられますし、滞在が長いのでよくお分かりだと思うのですが、木村さんの考えるメキシコ人の魅力はどんなところがありますか。
人は真面目で、フレンドリー。アメリカへの不法移民などのイメージがどうしてもついて回りますが、基本的にいい人たちばかりですよ。プライドが高いので、与えられた仕事しかやらないようなこともありますが、基本的には優しいし、知らないのに教えてくれようとすることもあります。笑
そんなところも含めてメキシコ人は好きですね。いい部分をきちんと見ることが大切だと思います。他人に対して寛容になると、自分もポジティブになって、それによって人間関係が広がって助けてくれる人も増えます。一方、あいつがああだこうだとイライラしてしまうと、人も離れていってしまい、すべてのことがうまく回らなくなってしまいます。
——メキシコでは、人間関係はお仕事ではとても重要ですよね。
そうですね、人間関係が仕事の基盤ですから、ビジネスライクな関係だけに留めないのはメキシコでは特に重要ですね。メキシコは少し濃すぎる部分もあるかもしれません。なので、時間を守らないとか余計な仕事をしない、とかでイラっとしても、笑っていられるおおらかさは大切ですね。仕事は一人では何もできませんからね。
——長いメキシコ生活で印象残っていることはありますか?
生活面で日本とはかなり違うのでいろいろ苦労することはあります。でも、大きい国なのでなんでもあって、住んでいても飽きないですね。いろんな地方都市とか綺麗なところがたくさんあるので、旅行先は無数にあります。チワワ州のバランカ・デ・コブレ(銅渓谷)という自然のすごく綺麗なところがあって、それは印象に残っています。
——最後に、メキシコを一言でアピールしていただけますか?
アメリカなどでは、「メキシコはとんでもなく治安悪いところ」みたいなイメージがありますが、一般的に想像されるよりはずっと安全です。観光するにしても、ピラミッドの遺跡や街並み、文化的な芸術も有名な壁画や、建築に至るまで、非常に見ところの多い文化の豊かな国ですので、遊びに来るには最高の国だと思いますよ。料理とか食事も充実しています。値段が安くて美味しいんですよ。人も日本みたいにきっちりとはしてないですが、堅苦しくなくて陽気で親切、メキシコに来ていただければきっとメキシコが好きになると思いますよ。
関連記事
デザイナー・中村さんがメキシコで目指す「夢のある家」と、オドロキのアイディア「自分に素直に生きること」~メキシコでの挑戦~ライター募集
Amigaであなたのメキシコ情報を共有しませんか?
詳しくはこちら